紫陽花の咲くころに

面白い

雨の降る音が、今年も彼女の心を揺らす。

藤村遥(ふじむら・はるか)は、梅雨の季節になると決まって、駅から少し外れた丘の上にある小さな公園へと足を運ぶ。
そこには、色とりどりの紫陽花が群れをなして咲いていた。
青、紫、ピンクに白。
雨に濡れるたびに花たちは色濃く艶を増し、まるで過ぎた日々を取り戻すかのように息づいている。

「変わらないね、ここは」

遥はベンチに腰を下ろし、傘の縁からぽたぽたと落ちる雨粒を眺める。
肌寒い空気の中で、ふいに誰かの笑い声が耳の奥に蘇った。
五年前のこの日も、こんな風に雨が降っていた。

「晴れてたらよかったのにね。でも、紫陽花には雨が似合うか」

隣にいた彼がそう言って微笑んだのを、今でも鮮やかに思い出す。
雨の似合う人だった。
控えめで、優しくて、そして少しだけ臆病なところがあった。

彼の名前は悠(ゆう)という。
大学の文学サークルで出会い、読書の好みが似ていたことから仲良くなった。
季節が巡るたびに一緒に訪れたこの公園が、遥にとっては特別な場所だった。

紫陽花の花言葉の一つに、「移り気」がある。
色を変えることからそう言われるが、悠はそれを嫌わなかった。

「でも、僕はね、移ろうからこそ綺麗だと思うんだ。変わっていく気持ちも、時間も、全部を含めてひとつの美しさなんじゃないかな」

そう語っていた彼の瞳は、確かに未来を見ていた。
だが、その未来が急に断ち切られたのは、梅雨が明ける直前のことだった。

交通事故だった。電話が鳴ったのは夜遅く、湿った風が窓を揺らしていた。
耳を塞ぎたくなるような現実は、容赦なく遥の日常を奪っていった。

それからというもの、紫陽花の季節になるたびに彼女はここに来る。
悠の言葉と笑顔をたどるように、咲き乱れる紫陽花の間を歩く。
涙はもう出ない。
ただ、胸の奥で何かが静かに疼くだけだ。

今年も、もうそんな季節になったのかと、遥は自分の膝に置いた手を見つめる。
静かに生きてきたつもりだった。
仕事をして、食事をして、誰かと笑って。
それでも、どこかで彼のいない世界に置いていかれたような気がしていた。

ふと、足音が近づいてきた。

「……あの、すみません。この公園の紫陽花、いつもこんなに綺麗なんですか?」

顔を上げると、若い女性が立っていた。
小ぶりの赤い傘を差し、胸元にカメラをぶら下げている。
遥は少し驚きながらも、頷いた。

「ええ、毎年変わらず、こんなふうに咲きます」

「すごいですね。私、今年初めて来たんです。こんな場所があるなんて知りませんでした」

その瞳には、まっすぐな好奇心と、わずかな戸惑いがあった。
遥は自分が初めてここを訪れた日のことを思い出す。
悠と一緒に、ぎこちなく笑いながら撮った一枚の写真。
手を伸ばせば、触れられそうな記憶。

「よかったら、座っていきませんか? 雨宿りついでに」

遥が声をかけると、女性は笑顔で「ぜひ」と答えた。

話をしてみると、彼女は写真を勉強している学生だった。
人や風景の「時間」を切り取ることに惹かれて、カメラを始めたという。
遥は、まるであの頃の自分たちと重なるような感覚を覚えた。

帰り際、女性が小さく言った。

「……紫陽花って、花言葉がいろいろあるって聞きました。私は“辛抱強い愛”っていうのが好きなんです」

その言葉に、遥は微かに目を見開いた。

「あの人が好きだったのは、“変化を楽しむ心”だったかもしれないわ」

そう答えると、心の奥にあった水たまりが、ようやく陽に照らされたような気がした。

その年の紫陽花は、なぜかいつもより青く澄んで見えた。