月光豆腐店の奇跡

食べ物

人里離れた山あいの村に、「月光豆腐店」と書かれた古びた看板を掲げる店があった。
夜しか開かないその店は、月がまん丸の晩にだけ、ふわりと灯りがともる。

作るのは、ひとりの老人――月野仁左衛門(つきの・にざえもん)。
白いひげを揺らし、誰もいない厨房で黙々と豆腐を作り続ける。
使うのは清らかな山の湧き水、地元の大豆、それに、かつて天女が忘れていったという神秘の「月のにがり」。

その豆腐は、言葉にできないほど美味かった。
ふわりとした口当たりに、ほんのりとした甘さ。
喉をすべり落ちたあと、どこか懐かしい記憶が胸に広がる。

けれどその豆腐、誰も買いに来ない。

なぜなら、月光豆腐店は“人間ではない者”が通う店だったから。

ある晩、町から迷い込んだ少女・ナツキが、山道で足をくじいた。
行き場を失った彼女は、灯りの漏れる豆腐店を見つけ、恐る恐る戸をたたいた。

仁左衛門は驚きもせず、ただ「よく来たな」と言って、湯気の立つ豆腐を差し出した。

「これ、食べてみなされ」

ナツキは、湯豆腐をひとくち。
熱いのに、やさしく包まれるようなぬくもりがあった。
痛みも、不安も、心の中のとげとげしさも、ふわりと消えた。

「……なんだろう、泣きたくなっちゃう味」

仁左衛門はうなずいた。

「この豆腐はな、食べた者の“心の傷”を和らげるんじゃ」

驚くナツキに、仁左衛門は静かに語った。

この豆腐は、かつて仁左衛門が失った妻のために作り始めたという。
戦災で心を壊した妻が、何も食べられなくなったとき、彼は思い出の味を再現しようと、豆腐作りに人生を捧げた。

ある日、満月の夜。
ひとくち豆腐を口にした妻の目に、はじめて涙が浮かんだ。
言葉は戻らなかったが、手を握り返してくれた。
それが、仁左衛門の原点だった。

それ以来、この豆腐は、夜の闇に迷う“何か”を導く味になった。

狐、天狗、迷い人、そして――過去を抱えた少女。

ナツキはその晩、仁左衛門と湯豆腐を囲んで語り合い、月が沈むころには、まるで生まれ変わったような気持ちになった。

朝になると、店はもう跡形もなく、山には静けさだけが戻っていた。

数年後。

東京で料理人となったナツキは、「月光庵」という小さな豆腐料理店を開いた。
使う水も大豆も、かつての仁左衛門には及ばない。
けれど、味に込める想いだけは、負けないつもりだった。

ある夜、ふらりと訪れた老紳士が、豆腐をひとくち食べて言った。

「……これは、あの人の味に似ておるな」

ナツキが目を見開いたとき、男はすっと立ち上がり、夜の街に消えていった。

その晩、厨房の窓から月を見上げたナツキの頬を、やわらかな涙が伝った。

「ありがとう、仁左衛門さん。今度は、わたしの番だね」

湯気の立つ豆腐の先には、またひとつ、誰かの心が温まる物語が待っている。