潮の花

面白い

海辺の小さな研究所に、ひとりの若い海洋生物学者がいた。
名を佐久間海(さくま うみ)という。
大学院を修了し、東京から南へ数百キロ離れたこの離島に赴任して三年目になる。
彼女の研究対象は、潮間帯に棲むイソギンチャクだった。

「イソギンチャクなんて、地味だね」

学会や同窓会で会う旧友たちは、決まってそう言った。
サンゴの共生関係やイルカの知能、深海魚の進化には関心があっても、岩陰にじっとして動かないイソギンチャクに興味を持つ人は少なかった。

しかし、海には海の時間がある。
潮の満ち引きに合わせて触手を揺らし、太陽の光を浴びて共生藻類とともに光合成を行う。
捕食のときは毒のある刺胞で小魚やプランクトンを絡め取る。
見た目は華やかでも、彼らの生態はまだ謎だらけだった。

ある日、海はいつものように朝四時に起きて研究所を出た。
干潮の時間に合わせて海岸の岩場へ向かう。
まだ星の残る空に、潮風が肌を刺す。

今日の目的は、島の北側で見つかった新種らしきイソギンチャクの個体を観察することだった。
触手が異様に長く、発光するという報告が漁師から寄せられていた。

懐中電灯を頼りに岩場を歩き、波の音に耳を澄ませながら目的の場所に辿り着く。
すると、黒く濡れた岩の間に、確かにそれはいた。

「……光ってる」

わずかに青白く、触手の先が蛍のように光っている。
発光生物は深海に多いが、潮間帯では珍しい。

海は息を殺して観察した。
細かな動き一つ一つをノートに記録し、周囲の温度、水質、岩の形状を調べる。
次に水中カメラを設置し、タイマー撮影を始めた。

そのとき、不意に波が大きく打ち寄せた。
足元が滑り、海は転倒しそうになる。
だがその瞬間、あることに気づいた。
イソギンチャクが、波の動きに合わせて触手を畳んだのだ。
まるで自らを守るように。

「反応速度が……普通よりずっと速い」

生き物には、理由がある。彼女はそう信じていた。

それから数週間、海は昼も夜もそのイソギンチャクの生態を観察した。
彼女の記録には、毎日の潮位変化、月齢、気温、発光の周期、さらには共生藻の種類までが詳細に綴られていった。

そしてついに、ある仮説にたどり着く。

「この発光は、仲間への合図では……?」

同じ岩場には、同種と思われるイソギンチャクが数体いた。
ある時間帯になると、まるで呼応するように触手が同調して光る。
しかも、満月の前後に限られていた。

研究発表の準備は慎重に進めた。
海は、光のパターンが繁殖期のシグナルである可能性を論じた。
これは潮間帯イソギンチャクでは前例のない発見だった。

学会当日、プレゼンを終えた海に、ひとりの老研究者が声をかけてきた。

「あなた、海の音を聴ける人ですね」

彼は、かつてイソギンチャクを研究していた退官教授だった。

「光の意味を『言葉』として捉えようとした人は、初めてですよ」

海は、ただ黙って微笑んだ。イソギンチャクは話さない。
でも、確かに語っている。
潮の流れ、光の揺れ、静かな命のリズム。
その言葉を聴くには、こちらが静かになるしかない。