枝豆の味を覚えている

食べ物

夏が来ると、正木和也は決まって枝豆を茹でる。
部屋の窓を全開にして、扇風機を首振りモードにしたあと、湯気を立てる鍋の前に立つのが彼の毎年の恒例行事だった。

今年の夏もまた、暑い。
茹でたての枝豆の湯気が、台所の小さな窓から立ちのぼる。
塩をふりかけて、皿に盛った枝豆を片手に、和也はベランダに出た。
手すりに肘をつき、まだ夕焼けの残る空をぼんやりと見上げる。

「やっぱり、夏は枝豆だな」

ぽつりとつぶやいたその声は、部屋の壁に吸い込まれていく。
ビールは飲まない。
枝豆だけをつまむのが和也の流儀だった。

和也は三十四歳、独身。
仕事はそこそこ順調。
友人も少ないながらいる。
けれど、何かがぽっかりと欠けているような感覚がいつもあった。
それでも、枝豆を口に入れるたび、幼いころの記憶がよみがえってくる。

祖母の家の縁側で食べた、枝豆の味だ。

あの頃、夏休みになると両親に連れられて、山あいの町にある祖母の家へ行った。
祖母は小さな畑で枝豆を育てていて、朝に収穫したばかりの豆を茹でてくれた。
塩加減はちょっと強めで、豆の甘さと絶妙に絡んだ。

「枝豆はね、朝採ってすぐに茹でるのが一番おいしいんだよ」

そう言って、笑った祖母の顔。
柔らかい皺と、目尻のほくろ。
和也はそれを、今でもはっきりと思い出せる。

それから月日は流れ、祖母は数年前に亡くなった。
家は取り壊され、畑もなくなった。
けれど、和也はスーパーで枝豆を見るたびに、祖母の言葉を思い出す。
そして、自分で枝豆を茹でるようになった。

ある日、職場の休憩室でそんな話をぽつりとした。

「枝豆ってさ、なんか落ち着くんだよね。子どもの頃、よく食べててさ」

向かいの席にいた後輩の佐伯が、目を輝かせた。

「えっ、正木さんも枝豆好きなんですか? 僕もなんですよ。というか、むしろ異常なほどに。枝豆専門の店、行ったことあります?」

「専門の店? そんなのあるのか?」

「ありますよ! 恵比寿に一軒、有名なところが。今度一緒に行きましょうよ!」

和也は驚いた。
枝豆で人とつながるとは思っていなかった。
それまでは、自分にとって枝豆は“思い出”の象徴であり、誰かと語るような話題ではなかったからだ。

週末、佐伯と恵比寿の枝豆専門店を訪れた。
店内には、全国各地の枝豆がずらりと並んでいた。
「だだちゃ豆」「黒崎茶豆」「湯あがり娘」——メニューを読むだけで、香りが立つようだった。

二人は黙々と枝豆を食べながら、それぞれの“枝豆体験”を語った。
佐伯の話もまた、祖母との記憶に紐づいていた。
似たような体験を持つ人間が、自分以外にもいることに、和也は不思議な安心を覚えた。

その日以来、和也の中で何かが変わった。
毎週末、違う種類の枝豆を探しては茹でてみるようになった。
時には、佐伯と一緒に茹でる。
塩加減を議論し、茹で時間を比べ、食感に点数をつける。
まるで夏の自由研究のようだった。

枝豆は、ただの豆に過ぎない。
けれど、その小さな鞘には、たくさんの記憶と感情が詰まっている。
それを分かち合うことが、こんなにも心を豊かにするのだと、和也は知った。

夏が終わる頃、和也は小さな決意を胸に、祖母の家があった町を訪れた。
取り壊された土地には、今は草が生えている。
何もないその空き地に立ち、手の中の枝豆を見つめた。

「ばあちゃん、俺、ちゃんと覚えてるよ」

風が吹き、枝豆の香りがふわりと立ち上る。
和也は一つ、鞘から豆を取り出して口に入れた。
あのころと同じ味が、舌の上にはっきりと広がった。