小さな港町に、「海藻屋しおり」という看板を掲げた店があった。
店主の名は本間しおり。
三十代半ばの彼女は、町の誰よりも海藻が好きだった。
わかめ、昆布、ひじき、アオサ、もずく——。
乾物も生も、海藻という海の贈り物に彼女は目がなかった。
子どもの頃から、スーパーの乾物コーナーに通ってはラベルを熟読し、成分表を暗記し、味の違いをノートに書き留めていた。
両親には「変わった子」と言われたが、本人にとっては当然の情熱だった。
しおりの店は、近くの漁師から直接仕入れた新鮮な海藻を、手作業で選別し、乾燥させたり佃煮にしたりして販売する専門店だ。
東京から引っ越してきた観光客が「海藻専門店って、初めて見た!」と目を輝かせてくれるのが嬉しかった。
だが、町の若者たちは海藻に興味を示さなかった。
「体にいいのはわかるけど、地味だし、腹が膨れない」と言われることも多い。
しおりは地味な存在でいい、と思っていたが、ある日、そんな信念が揺らぐ出来事があった。
春のある日、一人の高校生が店にやってきた。
制服姿の少年は、カウンターに立つしおりに言った。
「学校の自由研究で、食物繊維について調べてて……海藻って、すごいんですよね?」
しおりは一瞬きょとんとした後、思わず顔をほころばせた。
「ええ、海藻は天然の食物繊維の宝庫よ。種類によって水溶性と不溶性のバランスも違うし、ミネラルも豊富なの」
「やっぱり……あの、資料とかありますか?」
しおりは店の奥から、自分が十年かけて作った「しおりの海藻ノート」を持ってきた。
少年の目が丸くなる。
「これ……全部、海藻のことですか?」
「ええ。誰にも見せたことないけど、よかったら使って。返さなくていいから」
それから、少年は何度も店を訪れた。
研究が進むにつれて、「この海藻は何に使えますか?」「料理にするとしたら?」と質問の数も増えていった。
夏休み明け、少年がしおりに報告に来た。
「先生に、最優秀賞もらいました。あと、文化祭で“海藻ラーメン”って屋台を出すことになったんです。しおりさんの昆布だし、使ってもいいですか?」
「もちろん。うちの昆布でよければ、いくらでも持っていって」
文化祭当日、しおりはこっそり高校を訪れた。
体育館の前には「海藻ラーメン研究会」の手書きポスター。
ラーメンの上にわかめとアオサがたっぷりのっている。
中には「海藻トッピング全部盛り」なるメニューもあった。
「すごい……!」
彼女は感動で胸がいっぱいになった。
海藻は地味なんかじゃない。
好きだと胸を張ることに、理由なんていらないのだ。
祭りの終わり、少年が言った。
「僕、将来、海藻の研究者になりたいって思ってるんです」
しおりは思わず笑った。
「素敵ね。私の夢は、全国の人に海藻の魅力を伝えること。あなたなら、きっともっと遠くまで届けられるわ」
少年は照れながらうなずいた。
数年後、「海藻屋しおり」のカウンターには、新しく大学生になった彼からの手紙が飾られていた。
「海藻の研究、続けています。しおりさんの昆布で、実験してます。また会いに行きます。」
店の棚には、今日も艶やかな海藻たちが整然と並んでいる。
小さな町の小さな店から始まった物語は、静かに、そして確かに、広がり続けていた。