冬の訪れを知らせる冷たい風が、東京の下町に吹き抜けていた。
商店街の外れに、ひっそりとした食堂がある。
「ヤマナカ食堂」と書かれた看板は、ところどころ塗装が剥がれ、年月を感じさせた。
その食堂には、あるメニューがある。
それは「テールスープ」だ。
濁りのない透き通ったスープに、やわらかく煮込まれた牛テールが入っている。
大根、人参、ネギといった素朴な野菜と、ほんの少しの胡椒。
奇をてらわず、まっすぐな味。
この店の常連、佐伯修一(さえき・しゅういち)は、週に三回はこのテールスープを食べに来る。
年のころは五十代半ば。無口で、背筋の伸びた男だった。
「いらっしゃい、修一さん。いつものでいい?」
「うん、頼む」
店主のヤマナカは、七十歳を超えても厨房に立つ、寡黙な職人だ。
手際よくスープを温めると、あっという間に湯気の立った器が修一の前に置かれる。
「いただきます」
修一はスプーンでスープをすくい、口に含む。
ふうっと息を吐き、目を閉じる。
この味が好きだった。
初めてこのスープを飲んだのは三十年前。
当時まだ駆け出しの新聞記者で、仕事に追われ、食事もままならない頃だった。
偶然見つけたこの食堂で、ヤマナカの作るテールスープに出会った。
「これ、うまいですね」と言った彼に、ヤマナカは「手間かかってるからな」とだけ答えた。
以来、人生の節目には必ずこのスープを食べてきた。
仕事で大きな記事を書いた日も、離婚届を出した帰り道も、母を亡くした日も。
どんな日でも、このスープは変わらなかった。
ある日、修一がいつものように店に入ると、厨房には見知らぬ若者が立っていた。
二十代半ば、まだどこか頼りない手つきで鍋をかき回している。
「あれ、マスターは?」
「親父、腰やっちゃって。しばらく休むって。俺、息子のヤマナカ涼です。よろしくお願いします」
「……そうか」
修一は戸惑いながらも席につき、スープを頼んだ。
出てきたスープは、見た目は同じだった。
だが一口すすると、わずかに雑味があった。
骨の下処理が甘いのか、香りがやや濁っている。
修一は黙って食べ終え、店を出た。
数日後、再び訪れたときも涼が厨房にいた。
彼は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、前回のスープ、あんまり良くなかったですよね。親父に叱られました」
「……うん。でも、悪くはなかった」
「本当ですか?」
「味は正直だ。努力すれば、答える」
涼は目を丸くした後、口元に笑みを浮かべた。
「親父も、同じこと言ってました」
それから数ヶ月、修一は変わらず通い続けた。
涼のスープは、少しずつよくなっていった。
ある日、ふと気づくと、昔の味に近づいていた。
いや、それ以上かもしれない。
どこか涼らしい、柔らかな余韻があった。
「よくなったな」と修一が言うと、涼は目を潤ませた。
「……やっと、今日、そう言ってもらえた気がします」
「継ぐんだな、この味を」
涼はうなずいた。
「はい。でも、親父の真似じゃなく、自分の味で」
修一は深くうなずき、最後のスープをすくった。
湯気の向こうに、いくつもの記憶が立ち上る。
嬉しかった日、悔しかった日、何もかもが、スープの中に溶けていた。
それでも、明日もまた、この椀を求めてやってくるだろう。
なぜなら、テールスープとは、人生の味だからだ。