その村は、四方を山に囲まれていた。
舗装された道はなく、バスも一日に二本しか来ない。
けれど、その村には特別なものがあった。
赤土だった。
山肌も畑も、庭先までもが赤かった。
鉄分を多く含んだその土は、雨に濡れると濃く深い朱に染まり、太陽の下では乾いた赤に変わった。
春野(はるの)はその土が好きだった。
幼いころから裸足でその土の上を走り回り、手で掘り、口に入れては怒られた。
土は温かく、ざらつき、しっとりとして、彼女の体に馴染んだ。
「春野は赤土の子じゃ」
そう祖母は笑った。
春野の母は都会に出て帰らなかった。
父のことは誰も語らなかった。
祖母の言葉に、春野はなんとなく自分の居場所を見出していた。
春野が高校を卒業した春、祖母が亡くなった。
葬式のあと、親戚たちは口をそろえて言った。
「こんな村に一人で残ってどうするの? 町に出なさい」
けれど春野は首を振った。
祖母の残した家と、小さな畑と、そして赤土の庭を捨てる気にはなれなかった。
ひとりきりの暮らしは静かだった。
朝に起き、畑に出て、土を掘り返す。
スコップで一掘りすれば、赤土が顔を出す。
まるで血のようだ、と言った人もいたが、春野には命の色に見えた。
ある日、村を歩いていた春野は、一人の男に出会った。
背が高く、薄い笑みを浮かべていた。
「こんにちは。この村、土がきれいですね」
都会から来た陶芸家だという。
赤土を求めて旅しているらしい。
「あなた、この土の匂いがわかりますか?」
春野がそう尋ねると、男はしばらく黙った後に言った。
「温かくて、ちょっと湿ってて……それから、懐かしい」
春野は驚いた。
そんなことを言う人に初めて会った。
祖母ですら「懐かしい」とは言わなかった。
それから男はたびたび村を訪れ、春野の庭の土を少しずつ持ち帰った。
そして焼き物を作った。
皿や茶碗に混ざった赤土は、淡く赤く発色した。
まるで春野の庭の記憶が器になったかのようだった。
男の作品は都会で人気を博し、「赤土の器」として知られるようになった。
だが春野は、男が村に来るたび、土を手に取り、目を閉じて匂いを嗅ぐその姿が好きだった。
ある晩、春野は男に言った。
「どうして、この土が懐かしいの?」
男は少し黙ってから、ぽつりと語った。
「子供の頃、母の故郷に来たことがあるんです。この村か、近くのどこかだったと思う。でも記憶は曖昧で。ただ、赤い土の匂いだけが強く残っていて……。だから、探していたんです、ずっと」
春野は頷いた。
赤土は人の奥底に眠っている何かを呼び起こすのだと、彼女も知っていた。
やがて男は村に家を借りた。
そして春野と共に暮らすようになった。
二人の家の前には、広い赤土の庭があった。
そこに小さな椅子を置き、二人で座って夕日を眺めた。
日が沈むと、庭の赤土が燃えるように光り、空の朱と溶け合った。
「この土は、あなたのもの?」
男が尋ねたとき、春野は微笑んだ。
「ううん。土は、誰のものでもない。私たちが借りてるだけ。この村が、山が、くれたものよ」
男はしばらくその言葉を噛みしめるようにしてから、そっと手を土に触れた。
その夜、春野は夢を見た。
祖母が笑っていた。
土を握りしめ、彼女の手にすっと渡す。
「よかったね、春野。ちゃんと、帰る場所が見つかったね」
春野は目を覚まし、赤土の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。