「板チョコって、地味でしょ?」
そう言って笑ったのは、遥(はるか)がまだ東京の菓子メーカーに勤めていた頃だ。
営業部にいた彼女は、日々の数字に追われ、商談に追われ、夢なんて口にする余裕もなかった。
「でも、私は板チョコが好き。混ざりものがないぶん、その国のカカオがどんな風に育ったか、どんな人が作ったか、全部味に出る気がする」
そう語ったのは、研修で出会った製造部の青年・斉藤だった。
彼は将来ショコラティエを目指していたが、ある日突然会社を辞めて姿を消した。
遥がその言葉を思い出したのは、母親が倒れ、地元・長野に戻った三十歳の冬だった。
東京の忙しさとは無縁の山間の町で、ふと立ち寄った古本屋でカカオの本を見つけた時、心のどこかで眠っていた何かが動いた。
──板チョコの専門店をやろうか。
馬鹿げていると思った。
だが、心の中の声は止まなかった。
「地味」だけど、チョコレートの本質に一番近いもの。
それを誰かに伝えたいと思った。
母の介護の合間にカカオの産地を学び、焙煎やテンパリングの技術をオンラインで学んだ。
試作品を近所のパン屋やカフェに配り、少しずつ評判が広がった。
物件が決まったのは、それから2年後のこと。
築70年の元薬局だった店舗をリノベーションし、店の名前を「Fragment(フラグメント)」とした。
意味は「かけら」。
人生の断片が、いつか一つの形になる。
そんな願いを込めた。
開店初日、彼女は店の奥で息を潜めるように立っていた。
客が来なかったらどうしよう。
板チョコなんて、誰も見向きもしないんじゃないか。
そんな不安が押し寄せていた。
ところが、10時の開店と同時に、ひとりの女性が入ってきた。
「東京から来ました。SNSで見て、どうしても食べてみたくて」
彼女はエクアドル産の70%チョコを手に取り、目を細めた。
「……香りが、果物みたい。初めて食べる味です」
遥は、その瞬間、涙が出そうになった。
自分の作ったチョコレートが、誰かの心に届いた。
それが現実になった日だった。
それから月日は流れ、Fragmentには季節ごとの限定板チョコや、産地別食べ比べセットなどが並ぶようになった。
町の子どもたちが放課後に「今日の匂い、いつもと違うね」と覗きに来る。
観光客がチョコの香りにつられてふらりと立ち寄る。
ある日、遥はひとりの男性客に目を奪われた。
彼は遠慮がちに「ベネズエラ産ありますか」と尋ねた。
どこか懐かしい声。
斉藤だった。
「やっぱり、君だったんだね」
彼はその後、南米でカカオ農園の仕事をしていたらしい。
チョコレートへの情熱を捨てきれず、遠回りの末、再び日本に戻ってきたという。
二人は Fragment のカウンターで何時間も話した。
交わす言葉の端々に、昔の夢と、新しい希望が混ざり合う。
「次は一緒にやらない?産地の話、君にしかできないことがあると思う」
斉藤は少し黙ってから、うなずいた。
Fragment は今、新たな章を迎えようとしている。
遥にとって、チョコレートはただの甘いお菓子ではない。
それは、人生のかけらをひとつに繋ぐ、小さな接着剤のようなものだった。
だから今日も、彼女は一枚の板チョコを丁寧に磨き、包む。
それが、誰かの心を少しだけ温めてくれることを信じて。