黄昏レモンティー

面白い

静かな路地裏にひっそり佇む、レモンティー専門店「黄昏レモンティー」。
木製の看板に描かれた一切れのレモンが、夕日に照らされると金色に輝く。
店主の名は志村透(しむら とおる)、五十歳を目前にしてこの店を開いた。

かつて透は広告代理店で働く忙しいサラリーマンだった。
クライアントの要望に応え、会議に追われ、終電で帰る日々。
その疲れを癒していたのが、毎朝駅前の喫茶店で飲む一杯のレモンティーだった。

「なんでレモンティーなんです?」とある日、喫茶店のマスターに聞かれた。

「レモンを浮かべると、何か変わるんです。酸味のあとに残る甘さというか……一日をリセットできる気がするんですよ」

透にとって、レモンティーはただの飲み物ではなかった。
香り、色、味、そのすべてが心を整える儀式のようなものだった。
だが、忙しさに押し流され、その喫茶店も、レモンティーの味も、徐々に遠のいていった。

妻に先立たれたのは、その数年後だった。
透はそれをきっかけに退職し、自分の人生を見つめ直した。
心にぽっかり空いた穴を埋めるように、彼は各地の紅茶農園を訪れ、レモンの品種に詳しい農家を巡った。
やがて「本当に自分が納得できるレモンティーを作りたい」と思い至り、今の店を始めた。

「黄昏レモンティー」という名前には、人生の夕暮れを迎えた今でも、美しく、静かに、誰かの心に寄り添いたいという想いが込められている。

店内はレモンを模した黄色いランプが灯り、古い蓄音機からは静かなジャズが流れている。
透が淹れるレモンティーは一種類ではない。
アールグレイに淡路島産のレモンを浮かべた「朝の目覚め」、キームン紅茶と蜂蜜漬けレモンの「午後のやすらぎ」、さらには冷たい緑茶にレモンピールを加えた「夕暮れの静寂」など、時間帯や気分によって選べるのが特徴だ。

ある雨の日、店に一人の少女がやってきた。
制服姿で傘をさし、濡れた肩を震わせながらカウンターに座った。
年のころは十五、六。
透は声をかけるでもなく、ただそっと「夕暮れの静寂」を差し出した。

少女は驚いたように透を見たあと、恐る恐るカップに口をつけた。

「……おいしい」

その一言が、透の心にじんわりと染み入った。

「ちょっと疲れてる顔だったからね」と透は笑った。
「このお茶は、そういう時のために作ったんだよ」

少女はふっと笑い、「ここ、秘密にしておきます」と言って出て行った。

それから少女は毎週水曜日に訪れるようになった。
学校の話、家族の話、時には将来の夢についても語った。
透はただ聞き役に徹し、その日その日の彼女に合ったレモンティーを淹れた。

「人は、話すことで整理できる生き物なんだよ」と透は思う。
自分もそうだった。
レモンティーがきっかけで、話すことを思い出した。
味と香りが、人の心の扉を静かに開けることがある。

ある日、少女は言った。

「私、将来、紅茶の勉強がしたい。レモンティーの店、いつか自分でもやりたいなって」

透は驚きつつも嬉しかった。
「じゃあ、僕のレシピ帳を譲ろうか」と言うと、少女は涙ぐみながら何度も頷いた。

夕暮れの空は橙色に染まり、店先のレモンの看板が柔らかく輝いていた。
透はカップを拭きながら、心の中で亡き妻に語りかけた。

「ねえ、僕の選んだ道、間違ってなかったよね?」

返事はなかったが、窓の外で風に揺れるレモンの木が、優しく頷いているように見えた。