ロースハムの男

食べ物

「違うんだ。これは“ロースハム”じゃない。ただの“ハム”だ。」

薄く切られたピンク色の肉を前にして、男は眉間に深い皺を刻んだ。
その名は岸川修一。
五十を越えた独身男で、地元商店街では“ロースハムの岸川”として知られていた。

人はなぜ、ロースハムにそこまで執着できるのか。
誰もがそう思う。
けれど、岸川にとってそれは信仰にも等しい。

若き日、彼は一流のフレンチシェフを志してパリへ渡った。
金もコネもなかったが、ある日偶然入った下町のシャルキュトリー(食肉加工店)で運命の出会いを果たす。
そこで食べた、職人手作りのロースハム。
塩加減、燻製の香り、脂のとろけ具合。
全てが完璧だった。

「この味を超えるものが、この世にあるとは思えない」

彼はシェフの道を捨て、日本に帰国。
以来、ロースハム研究にすべてを注いできた。
食べるだけでなく、作る。
燻す。
寝かせる。
ときに原木から解体するところから始め、冷蔵庫を3台壊したこともある。

「スーパーの安物をロースハムと呼ぶな。あれはただの肉の切れ端だ」

岸川の口癖だった。

ある日、街に新しいデリカテッセンが開店した。
若き店主、三島あかりは元パティシエ。
肉の世界に転向したばかりだったが、SNSでの盛況ぶりは話題になっていた。
岸川は半信半疑で訪れた。

「ロースハムを一つください」

若い女性の笑顔が応じる。

「こちらが自家製です。国産豚ロースを桜チップで燻して、低温で48時間寝かせてます」

……説明は悪くない。
だが、肝心なのは味だ。
岸川は包みを受け取り、帰宅するとすぐさまナイフを研ぎ、厚さ1.2ミリの完璧なスライスを切り出した。

一口。

沈黙。

そのまま椅子に深く沈み込むと、岸川は30分動かなかった。

「……これは、真のロースハムだ……!」

その日を境に、岸川はその店に通い詰めた。
毎週、ロースハムを買うたびに細かい評価を口頭で伝えた。

「今週のはやや塩が立っていた。燻し時間を5分短くしてみたらどうだ」

あかりは最初こそ面食らっていたが、次第に岸川の異常なまでの知識と経験に驚嘆し、やがてこう言った。

「私に、ロースハムを教えてくれませんか?」

そして始まった、奇妙な師弟関係。
ロースハムを巡る日々の研鑽。
時には失敗して二人で黙りこくり、時には成功して夜通し飲み明かした。

岸川の頑なだった心も、次第にほぐれていった。
ロースハムは、ただの食べ物ではなかった。
人と人とを繋ぐ、静かな信念の塊だったのだ。

一年後、「デリカ三島」は地方の品評会で最優秀賞を受賞。
そのきっかけとなったのは、「ロースハム部門」に出品された特製ロースハムだった。
審査員の一人は呟いた。

「……これを作ったのは、誰だ?」

あかりは答えた。

「私と、ロースハムに人生を捧げた男です」

記者に取材されても、岸川は語らなかった。

「俺の名などどうでもいい。だが……そのハムに、魂は込めた」

ある日、岸川はひっそりと店に現れ、こう言った。

「引退するよ。あとは、あんたが繋いでくれ」

その目に、後悔はなかった。

彼は誰よりも“本物”を知り、それを後世に伝えた男だった。

冷蔵ケースの中。
美しくスライスされたロースハムが光っている。