目玉焼きの朝

食べ物

西山陽介(にしやま ようすけ)、35歳。
独身。
アパートの一室で静かに暮らしている。
彼は派手な趣味もなく、社交的でもないが、一つだけ誰にも負けないほどの情熱を持っている。

それは――目玉焼きだ。

毎朝6時、陽介は目覚ましが鳴るよりも前に起きる。
窓を開け、空の色と風の匂いを確かめたあと、台所に向かい、小さな冷蔵庫から新鮮な卵を取り出す。
彼にとって、目玉焼きは単なる朝食ではない。
儀式であり、信仰であり、自分自身と向き合う時間なのだ。

目玉焼きを焼くには「集中」が必要だと陽介は信じていた。
まずフライパンを弱火にかけ、オリーブオイルを静かに垂らす。
そして卵を割る――決して勢いよく割ってはいけない。
優しく、殻が割れる音に耳を澄ます。
その瞬間、彼の表情はまるで画家が最初の一筆を入れるときのように真剣だった。

「今日は、黄身が少し左寄りだな。なるほど、そうきたか。」

陽介は目玉焼きと対話していた。
とろけるような黄身に軽く塩をふり、白身の縁がカリッと色づくのを待つ。
そして最後に、ほんの少しだけ醤油を垂らすか、時にはブラックペッパーを振る。
それが彼の日によって変わる小さな冒険だった。

同僚には「朝からそんな手間かけるなんて信じられない」と言われるが、陽介は笑ってごまかすだけだ。
誰に理解されなくてもいい。
目玉焼きは、彼だけの世界なのだから。

ある日、陽介の朝に異変が起きた。

卵が、割れていたのだ。

冷蔵庫から取り出した卵のひとつにひびが入り、中の白身が少し漏れていた。
これまで完璧に管理してきた卵たちが、そんな状態で見つかるとは。
陽介は困惑しながらも、そっと卵を手に取り、別の卵に差し替えようとした。だが――。

「…君も、今日を生きたいのか。」

気づけば、陽介はそのひび割れた卵をフライパンに落としていた。

白身はきれいに広がらず、黄身も少し形が崩れていた。
いつものような「美しい目玉焼き」ではなかった。
しかし、彼はそれをじっと見つめていた。

「悪くない。」

その日、陽介は人生で初めて、焦げた端っこをむしゃむしゃと食べながら泣いた。
理由はわからない。ただ涙が出た。
割れても、歪んでも、それでも味は変わらない。
むしろ、その不完全さが愛おしいと思えた。

翌週、陽介は意を決して料理教室に通い始めた。
きっかけは、近所のスーパーで見かけたチラシだった。
「ひとり暮らし男性歓迎! 卵料理マスター講座」。
まるで自分に呼びかけているような文言だった。

そこで出会ったのが、石川美咲(いしかわ みさき)だった。

明るく、人懐っこい笑顔で話しかけてくる美咲に、最初は戸惑った。
しかし彼女もまた、目玉焼きに強いこだわりを持つ一人だった。

「私はね、絶対に黄身が半熟じゃなきゃダメなの。」

「へぇ、僕はどちらかというと、トロトロより少し固めの方が好きかな。」

「それじゃあ、一緒には食べられないね。」

「いや、二つ焼けばいいさ。」

たったそれだけの会話で、陽介の胸はふわりと温かくなった。

数か月後、陽介の朝は少しにぎやかになった。
二人分の目玉焼きを焼くのは難しいが、楽しかった。
お互いにちょっとずつ違うこだわりを持ち、それでも同じ朝を迎えられる幸せ。

美咲はケチャップをかける派で、陽介は醤油。
時にはお互いの皿を交換して、「あ、意外といけるね」なんて笑いあう。

完璧な目玉焼きなんて、ないのかもしれない。
けれど、不完全な形でも、誰かと食べる朝ごはんは、最高の一皿になる。

陽介は今日も早起きをして、二つの卵を手に取る。

「さて、今日の君たちは、どんな顔を見せてくれるかな。」

新しい朝が、ゆっくりと始まっていた。