波の向こうへ

面白い

梅雨が明け、灼けつくような陽射しが海面を照らしていた。
三十歳を過ぎたばかりの高橋悠人は、湘南の海岸に立っていた。
会社を辞めて三ヶ月。
理由を聞かれても「疲れた」としか言えなかった。
毎日電車に揺られて同じ景色を見て、同じ資料を作り、同じようなメールを送る。
自分が何のために生きているのか分からなくなった。

そして今日、人生で初めてサーフィンに挑戦しようとしていた。
何か変わるかもしれない――そう思ったわけではない。
ただ、偶然見たSNSで「朝の波に乗るのは、世界一の目覚ましだ」と誰かが言っていたのが頭に残っていた。

ボードはレンタルショップで借りた。
濡れた砂浜を歩くと、波の音が近づく。
ウェットスーツの中で汗がにじむ。
インストラクターの青年――日焼けした顔に白い歯が映える、佐藤と名乗った彼が、基本姿勢や立ち上がるタイミングを教えてくれた。

「最初は立てなくて当たり前っすよ。でも、何本か失敗しても、一本でも乗れたら、それが全部報われるっす」

そんなことを言っていた。

最初の一時間は、ひたすら転んだ。
波に巻かれ、塩水を飲み、ボードにあばらを打った。
立とうとした瞬間、バランスを崩して海に叩き落とされる。
自分の不器用さに腹が立ったし、やめたくなった。
だが、不思議と笑っている自分がいた。

「高橋さん、次の波、いいですよ!」

佐藤の声に背中を押されて、悠人はボードを押し出した。
波が迫ってくる。
全身を使ってパドリングし、タイミングを見て手をつく。
立ち上がる――その瞬間、なぜかすべてがうまくいった。

足がボードを掴み、体が浮いた。
波が彼の背中を押す。
風を切る音が耳元を通り過ぎ、視界が開けた。

「……立った」

短い数秒だった。
でも、その数秒のために、何十回も転んだ価値があった。
心が震えた。
何年も感じたことのなかった、純粋な達成感だった。

海から上がると、佐藤が親指を立てて笑っていた。

「やったっすね! 最初に立てた感覚、絶対忘れないでください!」

その日以来、悠人は毎週海に通うようになった。
朝4時に起き、電車に揺られて湘南へ向かう。
まだ夜が明けきらない浜辺で、他のサーファーたちと軽く会釈を交わす。
いつしか彼にも顔見知りができた。

サーフィンは簡単ではなかった。
波の機嫌は日によって違い、時には一度も立てずに終わることもあった。
でも、不思議と苦にならなかった。
そこには「うまくやる」よりも「向き合う」ことの喜びがあった。

かつての職場では、結果だけが評価された。
努力や過程は数字に置き換えられ、他人との比較でしか存在を認められなかった。
だが、海は違った。
波は誰にも平等に訪れ、転んでも、また次の波がやってきた。

半年が過ぎたある日、海を見つめながら悠人はふと気づいた。
自分はもう、何かから逃げていない。
過去を悔やむでもなく、未来を怖れるでもなく、いま目の前の波だけを見ている。

人生は波のようだ。
逃げても追ってくるし、抗えば巻き込まれる。
でも、うまく乗れば、どこまでも連れて行ってくれる。

悠人は再びボードを持ち、波へと向かった。
あの日のように、胸の奥に小さな高鳴りを感じながら。