北海道、知床半島の奥深い原生林。
霧が濃く立ちこめる朝、篠原涼(しのはら・りょう)はテントの前に腰を下ろし、静かに湯を沸かしていた。
彼は東京の大学で動物行動学を教える准教授だが、この十年は毎年、夏の終わりになると知床の森に通い詰めていた。
目的は、幻とも言われる大型のヘラジカの生態を明らかにすることだった。
「日本にヘラジカがいるわけがない」
学会では何度も笑われた。
けれど涼は十年前、たった一度だけ、その巨体が森をよぎるのを見たのだ。
静かに揺れる枝、土に残された巨大な蹄の跡。
その瞬間から、彼の人生は変わった。
その日も、彼は森の奥へ分け入っていった。
湿った苔の匂い、鳥の鳴き声、木漏れ日が揺れる。
涼は罠カメラを設置しながら、静かに歩いた。
ふと、倒木の脇に新しい足跡を見つけた。
蹄の跡は大きく、深く、そして新しかった。
「いる……」
胸の奥が高鳴った。
彼は足跡を追い、湿原へと抜けた。
そこには水面に草が揺れる静かな空間が広がっていた。
風が止み、鳥も鳴きやんだ。
涼が息をのんだ瞬間、湿原の奥からゆっくりと姿を現したのは、まさにあの幻の生き物だった。
大きな角、力強い体、そして深い目。ヘラジカだった。
彼はカメラを構えることも忘れ、ただ見つめた。
動物との距離は50メートルもなかったが、ヘラジカは逃げず、涼をじっと見つめ返した。
時間が止まったような、奇跡の数十秒。
そして、風が吹き、ヘラジカは背を向け、森へと消えていった。
涼はその場にへたり込んだ。涙がこぼれた。
十年分の嘲笑、孤独、疑念、それらすべてが、この一瞬のためにあったのだと思えた。
テントに戻った彼は、その晩、撮った写真と録音した音声を何度も確認した。
そして翌朝、衛星通信で大学に連絡を入れた。
「確認した。日本にヘラジカがいる。報告書を送る」
それは、研究者人生における最大の勝利であり、新たな旅の始まりでもあった。
数ヶ月後、篠原涼の論文は国際的な注目を集めた。
彼の粘り強さと、誰も信じなかったものを信じ続けた勇気が評価された。
しかし、彼は再び知床の森にいた。
「次は、彼らの社会構造と移動パターンを調べたい」
記者のインタビューにそう答えると、涼は笑った。
その目はまた、霧の向こうを見つめていた。