お茶漬け日和

食べ物

佐藤拓実(さとうたくみ)が初めてお茶漬けを美味しいと思ったのは、小学三年生の冬だった。

母が風邪で寝込んだある日、冷蔵庫の中には半端な漬物と冷やご飯しかなかった。
小柄な身体で台所に立ち、手探りで急須を使い、お湯を注ぎ、漬物を乗せて、食べた。
味は薄くて、少ししょっぱくて、あたたかかった。
なにより、寂しさが和らぐような気がした。

それ以来、彼は何かあるたびにお茶漬けを食べるようになった。

高校で告白に失敗したときも、お茶漬け。
大学の就職面接で落ちた夜も、お茶漬け。
祖父が亡くなった日も、お茶漬け。
嬉しい日には炙った鮭をのせ、悲しい日は梅干しだけ。
平凡な日は、永谷園で済ませた。

そして今、30歳を迎えた拓実は、東京の片隅で一人暮らしをしていた。
職場は小さな印刷会社。
業績は悪くないが、特別やりがいを感じているわけではない。
恋人もいない。
休日は録画したドラマを流しながら、コンビニのおにぎりをほおばる。

ただ、夜になると決まって、お茶漬けを食べる。

ある晩、近所のスーパーで買い物をしていると、ひとりの女性が声をかけてきた。

「それ、美味しいですよね。鮭のやつ」

手にしていたのは、お茶漬けの素だった。

声をかけてきたのは、見覚えのある女性だった。
高校の同級生、杉山紗季(すぎやまさき)。
控えめな性格で、文芸部だった彼女。
卒業以来、一度も会っていなかった。

「覚えてる? 佐藤くん。私、紗季。文芸部だった」

「もちろん。びっくりした。こんなところで会うなんて」

そのまま立ち話になり、近くのカフェに移動した。
紗季は最近、実家のある地方から上京してきたという。
仕事は編集のアシスタント。
生活に少し疲れているようだった。

「東京、ちょっと冷たいね。でも…佐藤くんがまだお茶漬け食べてるの、なんか安心した」

「いや、もう毎日だよ。たぶん前世で茶漬け屋だったんじゃないかと思うくらい」

彼女は笑った。
優しくて、どこか懐かしい笑い方だった。

その日から、二人は連絡を取るようになった。
たまに食事をしたり、互いのアパートで映画を観たり、週末の夜には手作りのお茶漬けを振る舞い合うようになった。
紗季の作る鯛茶漬けは絶品で、拓実は「もはや料亭レベルだ」と冗談を言った。

だが、ある日突然、紗季からの連絡が途絶えた。

LINEは既読にならない。
電話も出ない。彼女のSNSは一週間前から更新が止まっていた。
心配になった拓実は、彼女の家を訪ねたが、不在だった。
大家にも会ったが「引っ越ししましたよ、実家のほうに」と淡々と言われた。

机の上には、メモと、ひと袋のお茶漬けの素が置かれていた。

「佐藤くんへ
あのとき、スーパーで声をかけてよかった。
東京は私にはやっぱり難しかったけど、あなたとお茶漬けを食べる時間は、本当にあたたかかった。
またいつか、会えたらいいね。
紗季より」

拓実は、その晩、お茶漬けを作った。
特別な具材は何もない。
ただ、彼女が残してくれた素を使って、熱いお湯をかけた。
湯気の向こうに、彼女の笑顔が浮かんだ気がした。

そして彼は思った。

たとえ彼女がそばにいなくても、自分がこの一杯を覚えていれば、あの時間はきっと続いていくのだ、と。

お茶漬けは、今日も変わらず、あたたかい。