篠原まことは、三十五歳の独身男性。
製造工場で働く、どこにでもいるような普通のサラリーマンだ。
ただ、一つだけ、彼には人にあまり言えない“好きなもの”があった。
それは、タコさんウインナー。
赤い皮に包まれた小さなウインナーを、下半分に切れ込みを入れて焼くと、くるんと脚が開いてタコのようになる。
子どものお弁当によく入っているあれだ。
まことは、そのタコさんウインナーを、毎朝、自分の弁当に必ず入れている。
――いい歳して、子どもみたいって思われるかな。
そんなふうに自嘲しながらも、やめられなかった。
コンビニの冷えた弁当より、朝早く起きて自分で作る弁当のほうが、ずっと美味しい。
ご飯を詰めて、卵焼きを焼き、タコさんウインナーを焼く。
それが、彼の一日のはじまりだった。
「篠原さん、今日もそれ、入ってます?」
同じ工場のパートの主婦・伊藤さんが、昼休みにのぞき込んでくる。
「ええ。タコさんウインナー、です」
まことがフタを開けると、赤くて可愛いタコさんたちが3匹、ちょこんと並んでいた。
伊藤さんはくすっと笑う。
「うちの子も好きなんですよ。こういうのって、なんかホッとしますよね」
「そうですね。なんか、懐かしい味っていうか……」
まことにとって、タコさんウインナーは「母の味」だった。
小学生のころ、母親が毎朝作ってくれた弁当には、必ずと言っていいほど赤いタコさんが入っていた。
どんなにイヤな授業があっても、お昼にその姿を見ると、心がほぐれた。
中学、高校と進むうちに、だんだん弁当からタコさんは消えたが、社会人になって母が亡くなったとき、彼はふと思い出したのだ。
――そういえば、最後に食べたのはいつだったろう。
スーパーで赤ウインナーを買い、見よう見まねで切れ込みを入れて焼いた。
ぷりっと脚が開いて、くるんと反り返った。
フライパンの中で踊るように揺れるそれを見たとき、彼は不意に涙を流した。
母の顔が、ふわりと浮かんできたのだった。
「俺、あの頃の弁当、全部は覚えてないけど……タコさんウインナーだけは、ずっと忘れてなかったんですよ」
伊藤さんは静かにうなずいた。
「食べものって、不思議ですよね。思い出と一緒に残ってるんです」
まことは、タコさんを一つ箸でつまんで、口に運んだ。
じゅわっと油がにじみ出て、どこか甘くて懐かしい味がした。
もう何百回も作って食べたのに、やっぱりホッとする。
ある日、会社の新人歓迎会があり、まことも誘われた。
居酒屋の個室に集まった十人ほどの同僚たちの中には、いつもは接点のない若手社員もいた。
「篠原さんって、料理されるんですか?」
と、隣に座った新入社員の女性・日野さんが訊いてきた。
「ええ、まあ……弁当を毎日自分で作ってます」
「すごいですね! 私、朝弱くて……コンビニばっかりで」
「たいしたものじゃないですよ。ただ、タコさんウインナーは毎日欠かしませんけどね」
冗談めかして笑うと、日野さんが驚いた顔で言った。
「えっ、タコさんウインナー、ですか? わたし、大好きなんです、それ!」
「え、本当ですか?」
「はい。うちの母が毎朝入れてくれてて、なんか元気が出るんですよね。あの小さいのに、一日頑張れるっていうか」
まことは、その言葉に胸が熱くなった。
こんなふうにタコさんウインナーがつなぐ縁もあるのか、と。
それからというもの、日野さんとはたまに弁当の話をするようになった。
まことは彼女のために、タコさんウインナーの切り方をいくつか教えた。
足を多めに切ると「イカさん」になるし、真ん中に切れ込みを入れると「クラゲさん」みたいになると。
ある日、彼女が言った。
「私も、明日から弁当、作ってみようかな。まずは、タコさんウインナーから」
まことは、微笑んでうなずいた。
「いいですね。きっと、いい一日になりますよ」
その日も、彼の弁当箱の中には、3匹の赤いタコさんが並んでいた。
そして、ほんの少しだけ、未来への味も、そこに混ざっていた。