焼きたての夢

食べ物

古びた商店街の一角に、小さなトースト専門店がオープンしたのは、初夏の陽射しが柔らかく街を照らし始めた頃だった。
看板には「Pan to(パント)」とだけ、シンプルに書かれていた。

店主の名は、相沢志帆(あいざわ・しほ)、三十歳。
大学を卒業後、大手広告代理店に勤めていたが、三年目にして退職。
理由は明確だった。
彼女は、仕事に追われる日々の中で、自分が何のために生きているのか分からなくなっていた。

転機は、たまたま入った小さなカフェだった。
そこでは、ただのトーストが、バターの香りと共に陶器の皿に美しく盛られ、まるで一品のアートのように提供されていた。
齧った瞬間、表面はカリリと香ばしく、中はふわっと柔らかい。
その一口で、彼女の心に何かが灯った。

「こんなふうに、シンプルだけど人の心をあたためるものを作りたい」

その夜、志帆はノートを開き、「トースト専門店」のアイデアを書き始めた。

それからの一年、彼女はパン作りを基礎から学び、都内の有名ベーカリーでアルバイトをしながら、味覚と焼き加減の研究を続けた。
バターの種類、食パンの厚み、焼き加減、トッピング――それらすべてが、一枚のトーストに深く影響を与えることを知った。

ようやくオープンにこぎつけた「Pan to」は、カウンター6席だけの小さな店だった。
トーストは常時3種類、「クラシック・バター」、「季節のフルーツトースト」、そして「本日の気まぐれトースト」。
食パンは毎朝、自ら生地からこねて焼き上げる。

最初の数日は閑古鳥だったが、商店街の八百屋の老婆がふらりと来て、クラシック・バターをひと口食べた時、「あんた、これはうまいよ」と言ってくれた。
その言葉がSNSに投稿され、少しずつ人が増え始めた。

やがて、「Pan to」はメディアにも取り上げられるようになった。
だが、志帆は浮かれなかった。
トーストは飽きられやすい。
新しさだけで来る客ではなく、「また食べたい」と思ってもらえる味を提供し続けることが大切だった。

ある日、常連の少女が「パン屋さんになるのが夢」と言って、志帆の作業をじっと見つめていた。
志帆は自分の過去を思い出した。
かつて夢の無かった自分が、今こうして“焼きたての夢”を提供する側になっているのだと。

彼女は少女に言った。
「夢って、はじめはふわふわしてるけど、手をかけて焼くと、ちゃんと形になるんだよ」

月日は流れ、「Pan to」は街の小さな名物店となった。
志帆は毎朝、まだ暗いうちから店に立ち、パンをこねる。
オーブンの前で立つ時間が、彼女にとって一番落ち着く瞬間だ。

トースト一枚のために費やした努力や悩みが、目の前の誰かの一日を明るくする。
そんな日々を、彼女は心から愛していた。