いくらに命を賭けた男

食べ物

北海道・根室。冬の海に吹きすさぶ風が、漁港の岸壁を打ちすえる。
漁師・佐久間竜一(さくまりゅういち)、五十七歳。
顔には無数の皺、手は凍てつく潮風に焼けてごつごつとしていた。

「今年も、いくら漬ける時期がきたな」

そう呟く彼の目は、港の向こうに浮かぶ漁船をじっと見据えていた。

彼がいくらに命を賭けたのは、単なる味のためではない。
二十年前、最愛の妻・夏美が病に倒れたとき、竜一は莫大な治療費を捻出するため、禁じられた密漁に手を染めた。
だが、海は彼に容赦なかった。
嵐の中で船が転覆し、夏美の兄であり、竜一の親友でもあった雅人を失った。

「いくらの神に取り憑かれた男だ」
そう漁師仲間は囁いた。
だが竜一は黙して語らず、以降、ただただ鮭と向き合い、腹から最上の筋子を取り出し、塩加減、醤油の配合、寝かせの温度と時間……すべてを突き詰めた。

彼の漬けたいくらは、宝石のように輝いた。
ひと粒口に含めば、海の香りとともに、ほのかな甘味と旨味が爆ぜ、まるで命そのものを味わうかのようだった。
東京の高級料亭でも「幻のいくら」と称されるほどになり、竜一はいつしか“いくら職人”として伝説となった。

だが、彼の心は晴れることはなかった。

ある日、一人の若者が港を訪れる。
漁業実習生としてやってきた、二十四歳の青年・高山翔太。
彼は、漁よりも加工に興味があると言い、竜一の元に弟子入りを願い出た。

「いくら漬けたい?そんな甘いもんじゃねえ。漬けるんじゃねぇ、命を込めるんだ」

それでも翔太は引かなかった。
数ヶ月の間、黙々と作業を手伝い、魚の内臓処理から冷凍庫の整理、夜通しの塩水調整まで、決して愚痴ひとつこぼさなかった。

ある日、翔太がぽつりと漏らした。

「親父が、ここのいくらを食って泣いたんです。……昔、漁師やってたんですけど、事故で足を失って。それでも『この味だけは、海を思い出せる』って……」

竜一は、その言葉に黙してうなずいた。

それからというもの、二人は無言のうちに呼吸を合わせて作業をこなすようになった。
翔太の手には少しずつ、職人の血が通い始めていた。

やがて年末が近づくと、市場では「佐久間のいくら」が高値で取引されるようになった。だが、あるバイヤーが大口契約を持ちかけてきたとき、竜一は即座に断った。

「俺のいくらは、金で売るもんじゃねぇ。命の借りを返してるだけだ」

翔太には、その意味がわからなかった。
だが年が明けた正月、竜一が彼を自宅に招いたとき、古い写真を見せてくれた。
そこには、まだ若かった竜一と妻、そして笑顔の雅人が並んで写っていた。

「このいくらは、あいつの分まで生きてる。……だから、妥協はしねえ」

その晩、竜一はいくらを少しだけ炊き立ての白飯に載せ、翔太に差し出した。
何も言わず、翔太はそれを一口で食べた。
涙が自然と頬を伝った。

春。
漁の始まり。
翔太は地元に戻ることになったが、別れ際、竜一は一冊のノートを手渡した。

「いくら漬け帳。中身は全部、俺のやり方だ。……お前なら託せる。命、込めろよ」

それから三年後。
東京で新たにオープンした小さな海鮮食堂「雅」。
看板メニューは「命のいくら丼」。
そのレシピは、佐久間竜一が遺したものだった。

翔太の手によって漬けられたいくらは、かつて竜一が見せた輝きを、確かに宿していた。