緑の窓

不思議

午後の陽射しが公園の木々を黄金色に染めるころ、七瀬はベンチに座って文庫本を開いていた。
休日の静かな午後、子どもたちの笑い声と鳩の羽ばたきが耳に心地よい。
風がページをめくるのと同じ速さで、彼女のまぶたも時折重くなっていく。

ふと気配を感じて顔を上げると、すぐそばの茂みの向こうに、小さな木製のドアが立っていた。
まるで童話の世界から抜け出してきたような古びた扉。
公園には何度も来ているが、そんなものがあった覚えはない。

「……あんなの、あったっけ?」

誰にともなくつぶやいてから、本を閉じ、扉のほうへ歩み寄った。
近づいても、それはやはりただのドアで、どこにも壁は繋がっていない。
ポツンと、緑の中にドアだけが立っている。

試しにノブに手をかけると、驚くほどすんなりと開いた。

扉の向こうは、まるで別世界だった。
濃い霧がたちこめる森の中、月明かりに照らされる石畳の道が続いている。
公園の明るい午後とはまったく異なる、静謐で幻想的な空気。

七瀬は一歩、足を踏み入れた。
背後で風が吹き、扉がゆっくりと閉じる音がした。
振り返ると、もうそこにはドアも、さっきまでの公園もなかった。

代わりに、黒いマントをまとった人物が一人、道の先に立っていた。

「おや、あなたが今日の訪問者か。」

その声は低く、どこか懐かしさを含んでいた。
顔は見えないが、敵意は感じない。

「ここは……どこですか?」

「“緑の窓”の向こう側さ。選ばれた者しか来られない。君には何かを“見届ける”役割があるようだね。」

「見届ける……?」

男は黙って道を指し示した。
その指す先に、古びた時計塔がぼんやりと浮かび上がっている。

七瀬が歩き出すと、周囲の景色が徐々に変わっていく。
公園の思い出、子どもの頃の遊具、失くしたネックレス、初恋の人――忘れたはずの記憶が風景として現れては、また霧の中に消えていく。

「これは……私の記憶?」

「記憶の形は人によって違う。君にとっては風景だった、というだけさ。」

時計塔の前に着くと、扉がゆっくりと開いた。
中には巨大な振り子時計があり、その中心には壊れかけた「時間の結晶」が浮かんでいた。

「君の見るべきものはこれだよ。時間の狭間に生まれた歪みだ。」

「……直せるの?」

「直すには、“過去の後悔”を一つ、受け入れる必要がある。」

七瀬は目を閉じた。すぐに思い浮かんだのは、大学時代に絶交してしまった親友の顔だった。
謝ることもできず、連絡先も失い、それきりだった。

「……今でも夢に出てくる。謝れなかったことが、ずっと引っかかってた。」

「なら、その気持ちを認めるんだ。」

七瀬が心の中で「ごめん」とつぶやいた瞬間、結晶が静かに光を放ち始めた。
振り子が止まり、時計塔の鐘が鳴り響く。

次の瞬間、七瀬は公園のベンチに戻っていた。
手元の文庫本は、最初のページを開いたまま。
夕方の風がやさしく頬をなでる。

あのドアはどこにもない。
だが、胸の中には確かな温かさと、軽やかさがあった。

彼女はスマホを取り出し、「旧友の名前」を検索してみた。
数年ぶりに見たその名前の隣に、連絡先が載っていた。

もう一度会えるかもしれない。
謝れるかもしれない。
そんな希望とともに、七瀬は立ち上がった。

公園には、まだ風の中に“緑の窓”の気配が残っていた。