日曜日の朝、陽菜(ひな)はいつものように窓を開け放ち、春の風を部屋に招き入れた。
ほんのりと湿った空気とともに、どこからか甘い香りが流れ込んでくる。
「……いちごの香りだ」
彼女は目を細めて、小さく微笑んだ。
いちごの香りが好きだと気づいたのは、小学生の頃だった。
母がよく作ってくれた、いちごのショートケーキ。
ふわふわのスポンジと、たっぷりの生クリーム、そして一番上にちょこんと乗った赤いいちご。
その香りは、食べる前から陽菜の心をとろけさせた。
あれから十数年。
母はもういない。
大学進学を機に都会に出た陽菜は、忙しさに追われながらも、日曜日だけは自分のために時間を使うようにしていた。
今日は、近所の商店街で開かれる「春の果実フェア」の日だ。
ふとした会話で、隣に住む老婦人・中沢さんから聞いた情報だった。
「昔ながらの農家が作った、特別ないちごが並ぶんですって。香りがね、ぜんぜん違うのよ」
その一言が、陽菜の心を動かした。
着替えを済ませ、髪を一つにまとめる。
鏡の前で小さく深呼吸してから、エコバッグを持って家を出た。
商店街には、春を楽しむ人々の活気があふれていた。
露店からは焼きたてのパンの香り、甘酒の湯気、そしてあちこちに並べられた、赤くて艶やかないちごたち。
「ようこそ!香りのいちご、試食できますよ!」
威勢のいい声に導かれて、陽菜は一つのテントの前に足を止めた。
並んでいるのは、大小さまざまないちご。
中でもひときわ目を引いたのは、「春香(しゅんか)」と名付けられた品種だった。
「どうぞ。これはね、香りが売りなんですよ」
小さな透明カップに一粒ずつ入ったいちごを手渡され、陽菜はそっと鼻を近づけた。
「……あ」
一瞬で、あの記憶が蘇る。母の作ってくれたショートケーキ。
誕生日の夜。蝋燭の灯り。優しい笑顔。
ひと口かじると、ジューシーな果汁が口いっぱいに広がり、続いて、まるで春の庭のような香りが鼻を抜けていく。
「すごく、おいしいです。香りも、懐かしいです……」
思わず漏れた言葉に、店主が優しく笑った。
「香りって、不思議ですよね。記憶を連れてくるんです」
陽菜は春香を一パック買い、商店街をぶらぶらと歩いた。
桜餅を買ったり、古本屋をのぞいたりして、家に戻った頃には午後の日差しがリビングに差し込んでいた。
キッチンに立ち、冷蔵庫から生クリームを取り出す。
母のレシピノートを開いて、ふわふわのスポンジを焼く準備を始める。
「うまくできるかな……」
ボウルの中で卵を泡立てながら、陽菜は思う。
母が残したレシピは、言葉こそ簡潔だったが、そこには確かに「想い」が詰まっていた。
誰かのために、喜ぶ顔を思い浮かべて、作られたもの。
オーブンの中で焼き上がるスポンジ。
クリームを泡立て、春香を丁寧に洗ってヘタを取る。
手際は決してよくないけれど、楽しかった。
午後四時過ぎ。
陽菜は紅茶をいれて、出来上がったショートケーキを皿に乗せた。
窓の外では、小鳥がさえずっている。
ひとくち食べて、陽菜は目を閉じた。
「……ああ、これだ」
春香の香り、ふんわりとしたスポンジ、軽やかなクリーム。
そのすべてが、いちごの香りに包まれ、彼女の心を温めた。
いちごの香りが好き。
それはただの好みではなく、陽菜にとって「帰る場所」のようなものだったのかもしれない。
その夜、陽菜は母の写真立ての前に、ケーキの一切れを置いた。
「お母さん、また作れたよ」
写真の中の母が、いつもより少し、微笑んでいるように見えた。