静かな夜のカクテル

面白い

都心の喧騒から少し離れた裏通り。
そこには「Bar Silhouette」という小さなバーがある。
派手な看板はなく、ドアの上にさりげなく銀色の文字が浮かぶだけ。
だが、常連たちはこの店を「心を休める場所」と呼ぶ。

店の奥には一枚の長いカウンター。
その向こうでグラスを磨くのは、無口なバーテンダー・風間遼(かざま りょう)だ。
年齢は三十代半ば、黒いシャツにベストを着こなし、背筋をぴんと伸ばして立っている。
その所作には、一分の隙もない。

ある雨の夜、一人の若い女性が店に入ってきた。
濡れた髪を無造作にまとめ、疲れた顔をしている。
風間は無言でタオルを差し出す。

「……ありがとう」

女はタオルを受け取りながら、カウンターに腰を下ろした。

「何かおすすめある?」

「静かな夜には、サイドカーがよく合います」

そう言って風間は、無駄のない動きでシェーカーを振る。
その手つきに、彼女はしばし見惚れたように目を細めた。

差し出された琥珀色の液体を口にすると、思わずため息が漏れる。

「美味しい……」

「一日の疲れを、少しでも流せたなら幸いです」

彼女は名を「結衣(ゆい)」と名乗った。
出版社に勤める編集者で、作家とのやりとりや締切に追われ、毎日が戦場だという。

「なんで、バーテンダーなんてやってるの?」

唐突な質問にも風間は表情を変えず、グラスを磨きながら答えた。

「ここは、逃げ場です。誰にとっても」

「あなたにとっても?」

「ええ。私にも」

それ以上彼は多くを語らなかったが、その一言が妙に胸に残った。

それから結衣は、週に一度ほどのペースで店を訪れるようになった。
仕事で疲れ果てた顔をして現れ、美しいカクテルと、静かな時間に癒されて帰っていく。

ある日、結衣は涙を浮かべて店に飛び込んできた。
カウンターに座ると、何も言わずに手で顔を覆った。

風間は無言で、グラスに色の薄いジントニックを注いで差し出した。

「……仕事、飛んだ。作家が連載降りるって。全部、私の責任みたいになってる」

「君のせいじゃない」

「……でも、私がもっと上手くやれてたら」

風間は彼女の目をまっすぐに見て言った。

「自分を責めすぎると、心が乾きます。酒と同じです。乾いたグラスでは、いい味は出ません」

その言葉に、結衣は初めて、彼の過去に想いを馳せた。

「あなたも……乾いたこと、あるの?」

風間は、少しだけ微笑んだ。

「ありますよ。大切な人を失って。けれど、こうして人と話すことで、少しずつ満たされてきました」

その夜、二人は閉店時間を過ぎても、静かに話し続けた。

翌週、結衣は少し晴れやかな表情で店に現れた。
新しい企画が通り、仕事も少しずつ持ち直しているという。

「お礼に、何か作って。今日の私にぴったりなやつ」

風間は頷き、フルーツとリキュールを使ってカクテルを作り始めた。
グラスに注がれたのは、鮮やかなオレンジとピンクが混ざる美しいカクテル。

「これは?」

「“日の出”という意味の『オーロラ』です。夜が明ける時に飲むのが、似合うと思って」

結衣はその一杯を見つめ、微笑んだ。

「じゃあ、これからは……夜の終わりじゃなくて、朝の始まりを感じに来るね」

風間は軽くうなずき、カウンター越しにその微笑みに応えた。

静かな夜の店で、カクテルと共に流れる小さな物語。
「Bar Silhouette」は、今日も誰かの心をそっと受け止めている。