森の奥深く、人の気配がほとんど届かない静寂の地に、一頭のツキノワグマが暮らしていた。
名前は「シロ」。
首元にくっきりと浮かぶ白い三日月模様が、その名の由来だった。
シロはまだ若いが、母グマから教えられた知恵と勘で、山の恵みとともに生きていた。
春にはタケノコを掘り、夏には山葡萄やアリの巣を求めて彷徨い、秋には冬眠に備えてブナの実やドングリをせっせと集める。
ある年の秋、シロの暮らす山に異変が起こった。
例年なら豊富に実るはずの木の実が、どこを探してもほとんど見つからない。
干ばつの影響で木々が実をつけなかったのだ。
空腹に耐えかねたシロは、母グマの教えに背くかたちで、初めて人里近くの斜面へと足を踏み入れた。
そこには、甘い果実の香りが満ちていた。
人間が育てている柿の木や栗の木が並び、シロは夢中になって食べ続けた。
しかし、それは人間の世界との「境界」を越えるという、重大な行為だった。
数日後、村の中で「クマが出た」と騒ぎになった。
畑を荒らされた農家の人々は、警戒を強め、罠やカメラを設置し始めた。
シロはそのことを知らず、再び夜の畑に現れた。
そして、金属の音とともに、前足に激しい痛みが走った。
鉄製の罠にかかってしまったのだ。
もがき苦しむシロのもとに、翌朝、村の猟友会の男たちがやってきた。
「若いツキノワグマか……まだ子どもじゃねぇか」。
一人の老人がつぶやいた。
彼はかつて、山の自然を守る活動をしていた元林業員で、クマに対しても深い敬意を持っていた。
「殺さずに山へ返してやれないか」と彼は言ったが、村の若者たちは首を横に振った。
「また来るかもしれない。人が襲われたらどうするんですか」。
人間にとって、シロはすでに「害獣」だった。
そのとき、空が曇り、にわか雨が降り出した。
シロの濡れた毛並みの上に、ひときわ白い月の模様が浮かび上がった。
それを見た老人は、静かに決断した。
「おれが責任を持つ。山奥に運んで、もう人里に近づかせんようにする」
渋々ながら、若者たちは老人の言葉に従った。
数日後、シロは麻酔をかけられ、トラックに乗せられて遥か奥地へと運ばれた。
そこは、かつて人の手が入っていたが、今ではほとんど誰も足を踏み入れない原生林に近い場所だった。
目を覚ましたシロは、しばらく混乱したが、森の静けさと風の匂いに、自分が「帰ってきた」ことを理解した。
前足の傷はまだ痛んだが、そこには水も木の実もあり、仲間の気配もあった。
シロはもう人間の世界に近づかない。
あの夜の罠と痛み、そして老人のまなざしを、ずっと覚えていたからだ。
季節が巡り、また春が来た。
月影のような白い模様をもつ若いクマは、森の奥で新たな命と出会い、今では自らが母グマとなって、子どもたちにこう教えている。
「人の世界には近づくな。山は私たちの家。静かに、誇りを持って生きなさい」
森の奥深く、今もツキノワグマたちは、月の印を胸に抱いて、静かに暮らしている。