小春はサシェが好きだった。
サシェとは、香りを閉じ込めた小さな布の袋のこと。
ドライフラワーやハーブ、精油を染み込ませた木のチップなどを包み込んだそれは、クローゼットの中でひっそりと香りを放つ。
彼女の部屋には常に季節の香りが漂っていた。
春にはラベンダー、夏にはミントとレモングラス、秋はシナモンとクローブ、そして冬はヒノキとオレンジピール。
ひとつひとつ、彼女の手作りだった。
「香りって、記憶を連れてくるんだよね」
そう言って小春は、いつも静かに微笑んでいた。
高校の図書室で、僕が彼女と初めて会ったのは秋だった。
棚の隅に座って文庫本を読んでいる彼女のそばを通りかかったとき、ふわりと甘い香りがした。
シナモンと、もうひとつ…オレンジのような温かい匂い。
「この匂い…なんだろう?」
思わずつぶやくと、彼女が顔を上げて微笑んだ。
「サシェ。自分で作ったの。秋の香り、ってやつ」
それが僕と小春の最初の会話だった。
それから僕は、図書室で彼女を見かけるたびに話しかけるようになった。
彼女のそばにはいつも違う香りがあって、それが会話のきっかけになった。
やがて、二人で放課後にハーブショップへ行くようになった。
僕はハーブの名前も香りもよく分からなかったけれど、彼女が嬉しそうに語る様子を見るのが好きだった。
「香りってさ、空気に溶けて消えるでしょ? でも、記憶には残るの。不思議だよね」
そう言って、彼女はある日、手のひらサイズのサシェをひとつ僕にくれた。
ラベンダーとカモミールの、穏やかな香りだった。
「落ち込んだ時に嗅いで。少しだけ心が軽くなるよ」
彼女の言葉通り、そのサシェは何度も僕の支えになった。
受験前の緊張の夜、祖母が亡くなって眠れなかった日、友人と喧嘩した後の夕暮れ。
僕はあの香りを嗅ぎ、深呼吸をして心を整えた。
しかし卒業を目前にして、彼女は突然、引っ越した。
遠い親戚の介護を手伝うため、地方の町へ。
それから連絡は途絶えた。
彼女のスマホは解約され、SNSのアカウントも削除されていた。
大学に入り、新しい友人もでき、日々は流れた。
でも、僕の引き出しの奥には今も、あのサシェが残っていた。
すっかり香りは消えていたが、それでも捨てられなかった。
ある冬の日、古本市で偶然、彼女が好きだった作家の短編集を見つけた。
ページを開くと、一枚の紙がはらりと落ちた。
そこには、見覚えのある文字で、こう書かれていた。
――香りのないサシェは、まるで手紙みたいだと思う。
言葉にならない想いを、そっと包み込んでくれる。
その瞬間、ふっと鼻先をかすめたのは、かつてのあのシナモンとオレンジの香りだった気がした。
記憶の奥から立ち上る、温かくてやさしい残り香。
僕はその本を買って帰った。
帰宅後、引き出しから古いサシェを取り出し、中のハーブをすべて入れ替えた。
カモミール、ラベンダー、そして少しだけ、シナモンとオレンジピールを。
部屋に、懐かしい香りが戻ってきた。
香りは消えるけれど、心の奥にはずっと残っている。
僕はそっと、その新しいサシェに手紙を添えて、封筒に入れた。
宛先はない。
ただの「記憶」への投函だった。