オルゴールの谷

面白い

アルプスのふもと、小さな谷あいの町に、ルカという名の老職人が暮らしていた。
ルカは町でただ一人のオルゴール職人だった。
年老いた手は震え、眼鏡越しの目はかすみがちだったが、その手から生まれるオルゴールは、どれもまるで心を持ったかのように、人の記憶に深く染み入る旋律を奏でた。

工房は町の外れ、もみの木に囲まれた古い石造りの家の奥にあった。
入り口には小さな木製の看板が掲げられ、「Musique du Temps(時の音楽)」とだけ刻まれている。
扉を開ければ、木の香りと金属の匂いが混ざり合い、壁際の棚には数えきれぬほどのオルゴールが整然と並んでいた。

ある冬の午後、雪の降りしきる中、一人の少女が工房を訪れた。
名はクララ。
まだ十歳にも満たない年頃だったが、その瞳には大人顔負けの強い意志が宿っていた。

「おじさん、お願いがあります。お母さんにオルゴールを作ってほしいのです」

ルカは顔を上げ、優しく微笑んだ。
「お母さんに、かい?どんな音を聴かせたい?」

クララは少し考えた末に言った。
「お母さんがまだ元気だったころ、よく庭で歌っていた曲があるんです。もう声も出ないけど、きっとあの歌を聴いたら、笑ってくれると思って」

ルカは静かにうなずき、クララの話を丁寧に聞いた。
少女は少しずつ母の歌を口ずさみ、ルカはそれを譜に起こし、旋律を磨いていった。

制作には一ヶ月以上かかった。
木材は地元のくるみの木、音の櫛は真鍮の中でも最も響きの良いものを選び、ルカは一音一音を削り、磨き、調整した。
歯車はすべて手作りで、巻き鍵を回すたびに命が宿るよう設計された。

やがて完成の日。
ルカはクララに銀色の小さな箱を手渡した。
蓋を開ければ、透き通るような旋律が工房に満ちた。
クララの目から涙がこぼれた。

「これです……。お母さんの歌、こんなに綺麗に……」

その夜、クララはオルゴールを母の枕元に置いた。
病に伏せていた母の目から、一筋の涙が伝い、かすかに唇が動いた。
「……なつかしい……」

それからというもの、ルカの工房にはまた人が訪れるようになった。
亡き父の口笛、遠く離れた恋人の歌声、誰かの記憶に宿る音を形にしてほしいと、老職人を頼って。

ルカはそのすべてを引き受けた。
決して商売にせず、一つひとつを丁寧に、愛おしむように作った。
やがて人々は彼の作るオルゴールを「記憶の箱」と呼ぶようになった。

晩年、ルカはクララに工房を譲った。
少女は音楽学校に進み、やがて自らもオルゴールを作るようになった。
彼女が作るオルゴールにもまた、人の心を震わせる力があった。

ルカはある日、静かに息を引き取った。
ベッドの脇には一つのオルゴールが置かれていた。
蓋を開ければ、そこにはかつてルカの妻が好きだった、あの小さな子守唄が流れた。

谷の風が木々を揺らし、オルゴールの音色がかすかに空へ溶けていった。

それはまるで、時そのものが、優しく微笑んでいたかのようだった。