東京駅のホームに、早朝の霞が立ち込めていた。
発車を待つ東海道新幹線「のぞみ」は静かにその巨体を横たえ、乗客たちはそれぞれの物語を抱えて車内へ吸い込まれていく。
川村葵(かわむらあおい)、28歳。
東京のIT企業に勤めて五年、仕事に追われる日々だった。
今朝、彼女は会社を辞め、何も決めずに一人で京都行きの切符を買った。
理由は一つ。
「何かが変わる気がした」からだった。
指定席、窓際。隣に座っていたのは年配の男性だった。
グレーのジャケットに、古びた革のトランク。
目元に深い皺を刻みながらも、優しい微笑をたたえていた。
「お一人ですか?」
唐突に声をかけられ、葵は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「ええ。ふらっと、京都まで」
「いいですね。私は奈良まで。実は五十年ぶりなんですよ」
男は自らを田所誠一(たどころせいいち)と名乗った。
かつて東京で建築士をしていたが、最近すべての仕事を引退したという。
かつて奈良で出会った一人の女性に、もう一度会いたくなったのだと話した。
「会える保証なんてないんですけどね。……でも、不思議と今なら会える気がしてね」
その言葉に、葵の胸が少しだけ熱くなった。
新幹線は静かに発車し、都市の風景が一瞬で流れ去る。
葵は窓の外に目をやりながら、自分の選択に間違いはなかったのかと問いかけた。
「僕もね、昔は今の君みたいだった。自分の選んだ道が正しいか分からず、ただ走り続けていた。でもね、ふと足を止めることでしか見えない景色ってあるんですよ」
葵は思わず微笑んだ。
自分の迷いを見透かされたような気がしたが、不快ではなかった。
やがて車内販売が通りかかり、田所は二つのコーヒーを買ってきた。
紙カップを手渡され、葵は「ありがとう」と小さく呟いた。
「京都には、何か目的が?」
そう尋ねられ、葵はしばし黙った。
やがて、「探しに行くんです。自分が何をしたいのかを」と答えた。
会話の合間に流れる車窓の風景は、まるで彼女たちの心の揺らぎと連動しているようだった。
静岡、名古屋を過ぎ、新幹線はますます速度を上げていく。
だが、葵の心は次第に落ち着いていた。
京都到着のアナウンスが流れた時、田所はふとトランクから小さな封筒を取り出して葵に渡した。
「もし京都で立ち止まりたくなったら、ここに寄ってみるといい。
昔、私の友人がやっていた喫茶店だ。今も娘さんがやってるかもしれない」
封筒には、手書きの地図と「珈琲館すいれん」の名が記されていた。
葵は礼を言い、列車を降りた。
田所はそのまま奈良行きの近鉄線へと向かっていった。
京都の空気は、東京とはまるで違っていた。
時間がゆっくりと流れ、街の一角でふと立ち止まるだけで、自分が少しずつほぐれていくのを感じた。
三日後。
葵は「珈琲館すいれん」の扉を開いた。
カランと鳴るベルの音に迎えられ、中には年配の女性が一人。
彼女は田所の名を聞くと、ゆっくりと微笑んだ。
「ええ、父の親友だった方ですね。昔話、たくさん聞かされましたよ」
暖かなコーヒーの香りの中、葵は自分がまた少し変わっていくのを感じた。
あの新幹線の旅は、目的地へ向かうだけの移動ではなかった。
それは、人生の小さな転換点だった。