アジフライの向こう側

食べ物

港町・葉浜(はばま)に住む三十六歳の独身男、佐伯修司は、アジフライが好きだった。

好きというより、執着に近い。
週に五回は食べる。
昼に食べ、夜にも食べる。
冷凍のアジフライは認めない。
手で捌いたアジからでなければ、アジフライとは呼べないと信じている。

彼の実家は魚屋で、今は兄が継いでいた。
修司は隣町の金物屋で働き、地味でまじめな生活をしていた。
朝は六時に起き、店を手伝ってから出勤。
仕事が終われば、港の食堂「しおかぜ」に寄る。
目当てはもちろん、アジフライ定食。

「今日のは、長崎のアジね。脂、乗ってるわよ」
店主の節子がにやりと笑う。

「頼むよ。あと、ビール一本」

揚げたてのアジフライに、キャベツの千切りとレモン。
ひとくち齧れば、衣のカリッとした食感の奥から、じゅわりと旨味が滲み出す。
醤油を垂らす派か、ソースをかける派か——修司はその日の気分で決める。
今日はソース。
甘辛く、香ばしい香りが鼻をくすぐる。

「これを超える料理は、ないんだよなぁ……」

ある晩のことだった。
「しおかぜ」でいつものようにアジフライを頬張っていると、見慣れぬ若い女性客が隣に座った。
赤いワンピースに、髪をひとつに結んだ、どこか涼しげな印象の人だった。

「それ、美味しそうですね。アジフライ、そんなに好きなんですか?」

彼女は微笑んだ。
修司はどぎまぎしながら、「ああ、もう十年くらい食べてるよ」と答えた。

「へえ……私は東京の人間なんです。ここ、旅の途中で見つけて。なんとなく、いい匂いがしたから入ってきちゃって」

彼女の名は山野紗月。
東京でフリーのデザイナーをしているという。
疲れてしまって、一人で旅に出たらしい。

「東京のアジフライって、どこか嘘っぽくて」
「わかるよ。魚の味じゃなくて、油の味しかしない」
「そう! あれ、悲しいですよね」

ふたりは笑い合った。

その日から数日、紗月は毎晩「しおかぜ」に現れた。
そして毎回、修司の隣に座った。
時にはサバ味噌煮を注文し、時には彼のアジフライを少しもらって、レモンをかけすぎて笑われた。

「こんなにアジフライって奥が深いなんて思わなかった」
「だから、毎日食べても飽きないんだ」

彼女の旅は短く、やがて終わった。
東京に戻る前夜、紗月は言った。

「また来ます。今度は自分でもアジを捌けるようになってるかも」
「そしたら、俺が揚げ方を教えるよ」

別れ際、彼女は携帯番号を書いたメモをそっと置いていった。

それから数ヶ月。修司の生活は変わらなかった。
金物屋、魚屋の手伝い、「しおかぜ」のアジフライ。
でも、どこかに彼女の面影があった。
ふいにキャベツを多めに盛ってみたり、レモンを少し多めに絞ったり。

秋の終わり、港に見慣れた人影が現れた。
赤いワンピースではなかったが、確かにあの時の笑顔だった。

「アジ、捌けるようになりました」
「……じゃあ、揚げに行こうか」

ふたりで作ったアジフライは、今までで一番美味しかった。