山深い村、霧ヶ岳(きりがたけ)のふもとにある集落には、古くから「雲渡り(くもわたり)」という風習があった。
秋が深まり、朝晩の冷え込みが強くなった頃、霧ヶ岳の山頂から望む雲海が、まるで天と地を隔てる白い海のように広がる。
その海を「渡る」ために、村の若者たちは代々、頂上を目指すのだった。
今年、その役目を担うことになったのは、十七歳の少年・蓮(れん)だった。
蓮は幼い頃に母を亡くし、祖母と二人で暮らしていた。
父の顔は知らない。
祖母は昔から、「あんたの父さんも、あの雲海の向こうに行った」と言っていたが、詳しくは語らなかった。
その意味が分からぬまま、蓮は育った。
ある朝、村の長老が言った。
「今年の雲海渡りは、蓮に任せることにしよう。あの子の目には、まだ信じる力がある」
信じる力。それが必要なのか、と蓮は首をかしげたが、断ることはなかった。
どこかで、自分もまた、雲海の向こうに何かを見つけたいと願っていたのだ。
夜明け前、まだ闇の残る山道を、蓮は一人登っていった。
足元には枯れ葉が敷き詰められ、風が囁くたびに、何かが見え隠れするようだった。
「雲海の向こうには、何があるのだろう」
そう呟いたとき、ふと耳元で声がした。
――忘れ物を、探しに来たのかい?
蓮は驚いて振り返ったが、誰もいなかった。
山の精か、風の戯れか。だが、それは不思議と恐ろしくはなかった。むしろ、懐かしい気持ちさえした。
山頂に着いたとき、太陽はちょうど地平から顔を出し、目の前には一面の雲海が広がっていた。白い波が静かにうねり、まるで空の中に海ができたようだった。
蓮は、深く息を吸い、雲海の先に一歩、足を踏み出した。
すると、世界が変わった。
霧が晴れ、目の前に広がったのは、見たことのない景色。
青く澄んだ湖、宙に浮かぶ島、宵の星々が昼間に瞬いていた。
そこは現実とは思えぬ、幻想の世界だった。
「ようこそ、雲の向こう側へ」
声をかけたのは、見覚えのある青年だった。
背丈、目の色、笑い方――鏡のように自分に似ていた。
「父さん……なのか?」
青年はうなずいた。
「お前が来るのを、待っていた」
蓮は問いかけた。
「ここは……死後の世界?」
「いや、そうとも限らない。ここは“想いが形になる場所”なんだ。未練、願い、祈り、そういうものがこの世界を作っている。お前の母さんも、ここにいるよ」
その言葉に、蓮の胸が熱くなった。
青年――蓮の父は語った。
かつて、同じように雲海を渡ったが、帰ることができなかったと。
それは、自分の心が「戻ることを選ばなかった」からだと。
「でも、お前は違う。ちゃんと帰るんだ。そして、誰かに伝えてくれ。雲海の向こうには、“会いたい人に会える場所”があると」
蓮はうなずき、もう一度、雲海の上を歩いた。
気づけば、朝の山頂に立っていた。
霧ヶ岳は静かに輝いている。
雲海の先には、確かに何かがあった――それを、蓮は胸に刻んだ。
その年から、村の「雲渡り」は新しい名を持った。
「想いの旅」と。