梅の木の下で

面白い

春まだ浅い三月の初め、山間の小さな町に、ひとりの女性が戻ってきた。
名前は香織(かおり)。
東京で十年ほど働いたあと、心の疲れを癒すため、かつて祖母と過ごした古い家に帰ってきたのだった。

町は変わっていなかった。相変わらずの静けさ。
人々はゆったりと話し、道には子どもたちの笑い声が響いている。
香織の心も、少しずつ緩んでいく。

香織には、ひとつだけ特別な場所があった。
祖母の家の裏山に、ぽつんと一本だけ梅の木が立っている。
春になると、まるで雪のように白い花を咲かせ、甘く清らかな香りが辺りを包む。
その木の下で、幼いころ祖母と一緒にお弁当を食べたり、本を読んだりした思い出がある。

祖母が亡くなってから、その木の前には誰も近づかなくなった。
香織も長らく訪れなかったが、この春、不思議と足が向いた。

梅の木は、昔と変わらずそこにあった。
枝を広げ、冷たい風にゆれている。
蕾がほころび始め、今にも咲きそうだった。

「おばあちゃん、また来たよ」と、香織は木の下に腰を下ろし、小さくつぶやいた。

そのとき、背後から声がした。

「梅の香り、好きなんですか?」

驚いて振り返ると、そこには若い男性が立っていた。
見慣れない顔だったが、どこか優しげな雰囲気を持っていた。

「ええ、昔からずっと」

香織が答えると、彼はにっこりと笑った。

「僕も、ここが好きなんです。去年、この町に越してきてから、毎年この梅を見に来てます。名前は…知らないけど」

「香織って言います。この木、祖母が大事にしていたんです」

「そうだったんですね。僕は翔太。こっちに来てから、花の咲く時期が楽しみで」

香織と翔太は、しばらく梅の木の下で話した。
仕事のこと、町のこと、花のこと。
会話は自然と続き、気づけば日が暮れかけていた。

「また、来ますか?」翔太が尋ねる。

香織は一瞬迷ったが、笑ってうなずいた。

「うん、来る」

それから、香織と翔太は毎週のように梅の木の下で会った。
コーヒーを持ち寄ったり、お互いの悩みを話したり、ときには沈黙のまま花を見上げたりした。

梅の花はやがて満開になり、春の風に花びらが舞った。
木の下は白い絨毯のようになり、香りは一層強くなる。

ある日、翔太が言った。

「僕ね、東京でうまくいかなくて、こっちに逃げてきたんです。何もかも嫌になって。でも、この木と、香織さんに会って、少し前を向けそうな気がして」

香織は、翔太の手にそっと触れた。

「私も、逃げてきたの。だけど、今はここが大好き。梅の花と、あなたがいるから」

沈黙の中、風が吹いた。
梅の花びらがふたりの間に舞い落ちた。

やがて春は終わり、梅の花も散った。

でも、ふたりの心には、新しい芽が確かに根を張っていた。