小さな港町のはずれに、一軒の古い喫茶店がある。
「白兎(しろうさぎ)」という名のその店は、年季の入った木製のドアと、店主の手で描かれた季節ごとの風景画が飾られていることで知られていた。
その絵を描いているのは、店主ではなく、毎週木曜日の午後に現れる一人の青年だった。
名は遠野朔(とうの・さく)。
歳は三十手前で、町の人たちは彼を「絵のひと」と呼んでいた。
朔は、駅前のアパートに一人で暮らしていた。
かつて東京でグラフィックデザイナーとして働いていたが、ある日ふと、何もかもが自分の手からこぼれ落ちていくような感覚に襲われ、辞職して帰郷したのだった。
「水彩って、にじむでしょう」
白兎で、彼はよくそう言っていた。
「にじんで、混ざって、思いもよらない色になる。コントロールできない。でも、それがいいんです」
彼が描くのは、決して華やかではない風景だった。
空き地に咲いた雑草、曇り空の下の川沿いの道、雨に濡れた誰もいないバス停――。
だがその色彩は柔らかく、心の奥に触れるようだった。
ある春の午後、喫茶店に一人の女性が入ってきた。
旅行者のような風情で、濡れた傘を丁寧に畳む様子に、朔はなぜか目を引かれた。
彼女はしばらく店内を見渡し、壁に飾られた風景画の前で足を止めた。
「これ、あなたが描いたんですか?」
不意に問われて、朔はうなずいた。
「ええ。木曜日だけ、ここで絵を描かせてもらってるんです」
女性は絵から目を離さず、小さく微笑んだ。
「にじんだ空の色が、すごく好きです」
名前を尋ねると、彼女は「美和です」と名乗った。
東京から来たイラストレーターで、創作に行き詰まって、この町にしばらく滞在しているのだという。
それからというもの、木曜日の午後には決まって彼女が現れるようになった。
朔はスケッチを描き、美和は隣で紅茶を飲みながら静かにそれを見守った。
言葉は少なかったが、二人の間には、筆先から染み出す色のような穏やかな時間が流れていた。
ある日、美和がそっと尋ねた。
「どうして、水彩なんですか? 他の画材じゃ、だめなんですか?」
朔は少し考えてから、静かに答えた。
「一度、すべてを自分の思い通りにしようとして、壊れたことがあるんです。仕事も、人間関係も、自分自身も。だから今は、にじむものがいい。思い通りにいかない美しさを、受け入れたいんです」
その夜、美和は彼に一枚の絵葉書を渡した。
そこには、自分が描いたという小さな灯台のスケッチがあった。
「あなたの水彩画を見て、また描きたくなったんです」
その言葉に、朔は何も言えず、ただ静かにうなずいた。
季節は巡り、桜が咲き、やがて散った。
美和は東京へ戻る日、こう言った。
「また、来ます。あなたの絵が、私の帰る場所みたいだから」
それからしばらくして、朔は港の見える丘に小さなアトリエを開いた。
壁には、自分の絵と並んで、美和から届く絵葉書が飾られている。
水彩は、今日も少しにじむ。
でもそれがいいのだ。
思いもよらない色が、人生にもあるのだから。