白い蜜の記憶

食べ物

小学生の頃、夏になると必ず母がかき氷を作ってくれた。
赤いイチゴのシロップと、ぽってりと重たい練乳をたっぷりかけてくれるのが恒例だった。
俺はそれが大好きだった。
氷の冷たさに歯を浮かせながらも、練乳の甘さを追い求めてスプーンを動かし続ける。
底の方で氷が溶け、水に近い汁となった練乳を飲み干すときの幸福感。
あれを超える幸せを、俺はいまだ知らない。

社会人になってからというもの、甘いものを食べる機会はめっきり減った。
スーツのポケットには糖分のないミントタブレット。
コンビニではブラックの缶コーヒーを無意識に手に取る。
だが、ある夜、ふとしたきっかけでスーパーの乳製品コーナーを通りがかった俺は、懐かしいあのチューブに出会った。
赤いフタに、白い牛。
明治の練乳。
何かが弾けた。
気がつけば、俺はチューブを2本カゴに入れていた。
家に帰るなり、冷蔵庫も開けずにそのまま封を切る。
舌に乗せた瞬間、記憶の中の夏休みが、一気に押し寄せた。

「うわ、なっつ……」

気づけば、翌朝には一本空になっていた。
胃もたれもあったが、満たされた気持ちのほうが勝っていた。
それから俺は、毎日のように練乳を買った。
かき氷にかけるのはもちろん、トーストにも、フレンチトーストにも、果ては味噌汁に少し入れてみたりもした(これは失敗だった)。
部屋には空になったチューブが並び、冷蔵庫には常に予備の練乳。
もはや俺の生活に欠かせない存在となった。

ある日、職場で後輩の杉山が声をかけてきた。

「佐倉さん、最近ちょっと顔つき変わりましたよね。なんかこう…柔らかいっていうか」

「そりゃまあ、糖分摂ってるからな」

「え、甘いもん苦手じゃなかったでしたっけ?」

俺は正直に答えるか迷ったが、あの白い蜜に対する誠実さを裏切ることはできなかった。

「実はさ、最近、練乳にハマっててな」

「……え? あの、かき氷とかにかけるやつですか?」

「そう。あれそのままチューブで吸うと最高だぞ」

杉山はしばし沈黙した後、なぜか目を輝かせた。

「佐倉さん、俺も好きです。練乳」

思わぬ同志の出現に、俺は驚いた。
まさかこの会社に、練乳に理解のある人間がいるとは。
それから俺たちは「練乳クラブ」と称し、昼休みに新たな練乳の活用法を語り合った。
パンに塗るだけでなく、ヨーグルトに入れる、バニラアイスに混ぜる、果てはコーヒーに少し垂らすとキャラメル風味になることまで発見した。
2人だけのささやかな遊びだったが、どこか心が満たされていくのを感じた。

その年の夏、杉山がぽつりと呟いた。

「子どもの頃、うち貧乏で、かき氷のシロップしかなくて。練乳なんて、夢の味でしたよ」

彼の言葉に、俺は自分の幸せが当たり前ではなかったことを知った。
だからこそ、あの甘さを今、2人で分かち合えることに、意味がある気がした。

それから3年後、杉山は転職し、俺も部署が変わった。
連絡は時々しか取らなくなったが、今も冷蔵庫には練乳がある。
休日の朝、パンに塗って一口かじる。
甘い白い蜜が舌に広がるたびに、あの夏の日の思い出と、ちょっとだけまっすぐな友情がよみがえる。

人生は苦いものかもしれない。
だけど、そこにひとさじの練乳があれば、ちょっとだけ、甘くなる。