ガーリックの香りに包まれて

食べ物

あの通りには、いつもふんわりとパンの焼ける匂いが漂っていた。

小さな商店街の端にある、木造の古びた一軒家。
その扉には手描きの看板がぶら下がっている。
「GARLIC MOON – ガーリックトースト専門店」。
控えめな字体の下に、小さな月のイラストが添えられている。

その店を切り盛りするのは、三十六歳の一人の女性、**相沢日菜(あいざわ・ひな)**だ。
大きな夢も野望も持たない彼女が、なぜガーリックトースト専門店などというニッチな店を始めたのか、客たちは知らない。
ただ、彼女の焼くトーストには、なぜかもう一度食べたくなる魔力があった。

三年前、日菜は全く別の人生を歩んでいた。
都内の広告代理店で働き、深夜までデスクにかじりつき、数字とクライアントの顔色ばかりを追っていた。
週に一度、コンビニの前で泣いて帰る日もあった。
あまりのストレスに突発性の難聴を患い、そのまま職場を去った。
誰も止めなかった。

地元に戻った日菜は、母の遺した古民家にぽつんと住みはじめた。
何もする気が起きず、眠っては起き、ただ一つの楽しみは朝に食べるトーストだった。
冷凍パンをオーブンで温め、バターを塗り、刻んだニンニクと少しの塩をふる。
カリッと音を立ててかじれば、その香りと味が、ほんの数分だけ世界を明るくしてくれた。

「この味、好きだったなぁ」とつぶやいたのは、母が他界する数ヶ月前、二人で朝食を囲んだあの日のことを思い出したからだ。
母は、どんなに忙しくてもガーリックトーストだけは手を抜かなかった。

そのとき、ふと心に浮かんだ。

「ガーリックトーストだけの店って、あってもいいかも」

もちろん、すぐに上手くいったわけではない。
地元の知人には笑われ、銀行からは融資を断られた。
それでも日菜は、最低限の機材と予算で店を開いた。

開店初日はたった3人の客。
でも、そのうちの一人が帰り際にこう言った。

「…この匂い、子どものころを思い出すわ。ありがとう」

それが彼女の背中を押した。
そこから、少しずつ口コミが広がり、地元紙にも取り上げられた。
テレビにも小さく紹介されると、わざわざ電車に乗ってくる客も現れた。

日菜の店には、クラシックなプレーンのガーリックトーストから、ハーブ風味、チーズがとろけるタイプ、さらにはスイーツ系までバリエーションがある。
使うパンは地元の老舗パン屋との共同開発。
ニンニクは青森の農家から直送される。

朝7時に開店すると、カウンターに座る常連の高校生、出勤前のサラリーマン、休日の親子連れが思い思いに過ごす。
どの客にも共通しているのは、トーストをひと口かじった瞬間の、ほっとした表情だった。

店を始めて一年が過ぎたころ、日菜のもとにある女性が訪ねてきた。
白髪まじりのその女性は、日菜の母と昔一緒にパン屋を営んでいたという。
彼女が差し出した古びたノートには、母が開発していたトーストのレシピがびっしりと書かれていた。

「…ガーリックバターに味噌を混ぜてる…?」
驚いた日菜は、試作を重ね、ついに「味噌ガーリックトースト」としてメニューに加えた。
評判は上々で、特に年配の客に人気となった。

今でも日菜は、毎朝オーブンの前に立つたび、心の中で母に話しかけている。

「今日も、いい香りになりそうだよ」

ガーリックの香ばしい匂いは、記憶と繋がっている。
過去の悲しみも、喜びも、愛も、その香りに溶け込んでいる。
日菜にとって、この店はただの商売ではない。
母との再会の場所であり、自分を取り戻す時間でもあるのだ。

そして今日もまた、誰かが店の扉を開け、こう言う。

「ガーリックの匂いにつられて来ちゃいました」

日菜は、いつものように優しく笑う。

「いらっしゃいませ。おすすめは、朝焼きのプレーンです」