澄んだ秋の風が、古い商店街の角を撫でていく。
風に乗って香ばしい香りがふわりと漂い、思わず足を止める人もいる。
その源は、小さな店「焙日(ほうび)」からだ。
店主の名は早川詠美(はやかわ えいみ)。
三十七歳。
かつては東京の広告代理店でバリバリ働いていたが、数年前に突然退職し、この町に越してきた。
ここは、彼女の祖母が暮らしていた場所でもある。
人生の転機は、祖母が亡くなったあの夏の日だった。
詠美は一人きりで遺品整理をしながら、ふと台所にあった鉄瓶と茶筒に目をとめた。
ほうじ茶だった。
何の変哲もない、焦がし茶葉の匂い。
でも、その瞬間、心の奥に灯るようなものがあった。
「おばあちゃん、いつもこれ淹れてくれてたな」
忙しさにかまけて、味も香りも忘れていた。
だが、その一杯のぬくもりが、詠美の中で静かに何かを変え始めた。
東京に戻ってからも、彼女の頭からあの香りが離れなかった。
オフィスの喧騒、終電間際のラッシュ、目的の見えない日々。
気がつけば、パソコンの画面ではなく、焙煎温度や茶葉の品種を調べていた。
そして一年後。
彼女は仕事を辞め、祖母の古民家を改装して、ほうじ茶専門店を始めた。
最初は誰にも理解されなかった。
友人には「何でわざわざほうじ茶?」と言われ、両親にも「もっと現実的に考えろ」と反対された。
でも詠美は、不思議と揺るがなかった。
「ただ、焙じたいの。人の気持ちも、自分の気持ちも、静かに整えるように。」
店は小さく、品数も限られている。
朝焙じたばかりの茶葉を売り、奥の小さなカウンターで一杯ずつ丁寧に淹れる。
客の多くは近所の年配者や、近くの大学の学生。
中には「この香りに引き寄せられた」と言ってふらりと入ってくる人もいる。
「あなたの淹れたお茶を飲むと、なぜか肩の力が抜けるのよ」と、ある常連が言った。
詠美はただ微笑み、「お茶って、そういうものかもしれませんね」と答える。
ある日、一人の若い女性が訪れた。
目の下にくまを作り、スマホを手放せない様子の彼女は、注文したほうじ茶をじっと見つめ、ふうっと一息ついてから、ようやく口を開いた。
「なんだか、泣きたくなる香りですね……」
その言葉に、詠美はハッとした。
そうだ、自分もあの日、同じ気持ちだった。
泣きたいとき、誰にも頼れないとき。
そんなときに、ふっと寄り添ってくれるものが欲しかった。
熱くもなく、冷たくもない、ほどよい温度と香ばしさ。
言葉よりも静かな慰め。
だから彼女は、この店を始めたのだ。
月日が流れ、店は少しずつ町に溶け込んでいった。
季節ごとの限定焙じ茶や、手づくりの和菓子とのペアリングも人気になった。
詠美自身も、かつての自分と同じように「何かを見失った人たち」がこの店で何かを見つけていく姿を見るたび、心のどこかが焙じられていくようだった。
今日も変わらぬ朝が来る。
鉄鍋に火を入れ、茶葉を手で煽る。
ぱちぱちと葉が弾ける音。
立ちのぼる香ばしい湯気。
それは祖母が、詠美に残してくれた静かなレガシー。
詠美は、焙じる。
誰かの心を。
自分の歩みを。
ゆっくりと、焦がさぬように。