ちらし寿司の記憶

食べ物

春の終わり、町外れの古びたアパートの一室で、佐藤美沙(さとう・みさ)は冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫の中には、買い置きしてあった錦糸卵、甘酢生姜、冷凍のエビ、きゅうり、そして一昨日炊いて冷凍しておいた酢飯用のご飯。
彼女は思わず小さく笑ってつぶやいた。

「また作っちゃうな、ちらし寿司」

別に特別な日ではなかった。
ただ、なんとなく気分が落ち込んでいたのだ。
こういうときは、決まってちらし寿司が食べたくなる。

「お祝いご飯」だと人は言う。
ひな祭りや誕生日、入学式や就職祝い。
けれど美沙にとってちらし寿司は「記憶の食べ物」だった。

子どもの頃、母はめったに料理をしなかった。
忙しい仕事を抱え、冷凍食品やコンビニ弁当が食卓の主役だった。
それでも、年に一度だけ、母が自分で作る料理があった。
それがちらし寿司だった。

「これはね、美沙が生まれた日のごはんよ」

幼い頃に聞かされたその言葉が、美沙の中でずっと残っている。

母は具材に妥協しなかった。
しいたけは甘く煮含められ、レンコンはシャキッと歯ごたえを残し、薄焼き卵は金糸のように細く切られていた。
錦糸卵を乗せる母の背中を、美沙は何度も見ていた。
あの背中は、母が仕事をしているときよりも、ずっと近くに感じられた。

母が亡くなったのは、美沙が二十歳になった年の春だった。
病院のベッドで最期に口にしたのも、少しだけ口に入れたちらし寿司だった。
すでに食欲もなく、ほんのひと匙だけ。
でも、母は微笑んだ。

「美沙、あんたの方が上手に作れるようになったね」

あれ以来、美沙はちらし寿司を作るたび、母のことを思い出す。

今日も、酢飯の熱を手のひらで感じながら、美沙は具材を混ぜていく。
細かく刻んだしいたけの香り、甘い卵、エビのやさしい色。
どれも懐かしく、やさしい。
盛りつけるときは、色のバランスを意識する。
黄色、ピンク、緑。
まるで絵を描くような時間。

窓の外では、春の陽ざしがベランダの鉢植えを照らしていた。
パンジーが風に揺れている。

ひとくち食べると、ほっとする。
涙が出そうになることもあるけれど、それもまたいい。
食べ終わるころには、少しだけ心が軽くなるのだ。

午後からは仕事の面接がある。
転職活動の途中で、うまくいかない日々が続いていた。
今日はそのリスタートの第一歩。

「よし、頑張ろう」

美沙は深呼吸をして立ち上がる。
ちらし寿司が、今日もまた、彼女を少しだけ強くしてくれた。