私の通う高校には、古びた屋内プールがある。
夏でも水は冷たく、壁には黒ずんだカビがこびりつき、天井の蛍光灯はところどころ点滅していた。
最近では新設されたスポーツセンターに生徒が流れ、ここを使う者はほとんどいない。
それでも、私はこの場所が嫌いじゃなかった。
ひんやりとした静けさが、どこか心を落ち着かせた。
その日、私は放課後、誰もいないプールでひとり泳いでいた。
水面を蹴って潜ると、プールの底に何か黒い影が見えた気がした。
「ゴミかな」と思い、気にせず泳ぎ続けた。
だが、それは一度では終わらなかった。
ターンをしようと水中で反転したとき、また、底に何かがいるのを見た。
今度ははっきりと、人の手だった。
青白く、しわだらけの手が、底からゆっくりと揺れていた。
私は水面に飛び出して、荒く息を吐いた。
「誰か、いるの?」
プールは静まり返っていた。
水面には私が立てた波紋だけが広がっていく。
気のせいだ、きっと、そう思い聞かせた。
だが、心臓は早鐘を打ち、背筋には冷たい汗が流れていた。
それでも私は泳ぎを再開した。
このプールには、もう誰も来ない。
見間違いに違いない。
何度目かの往復を終えたとき、不意に足首を何かが掴んだ。
「うわっ!」
私は悲鳴を上げ、水を飲み込みながら必死に足をばたつかせた。
がっしりとした冷たい手が、私を水底へ引きずり込もうとする。
必死で振り払うと、何とか手は離れたが、足には赤黒い痣が残っていた。
恐怖で震えながら、プールの縁にしがみつき、どうにか這い上がった。
そのとき、ふと視線を感じた。
振り向くと、プールの中央、水面から顔半分だけを覗かせた”何か”がこちらを見ていた。
それは、少女のようだった。
しかし、目は虚ろで、口は不自然に裂け、何より、肌が死人のように蒼白だった。
私は無我夢中でロッカールームへ逃げ込んだ。
裸足のまま、ずぶ濡れの服を着替える余裕もなく、ただ震えていた。
「なんで、あんなものが……」
すると、ロッカールームの隅から、水音が聞こえた。
ぽた、ぽた、ぽた。
誰かが濡れた足で歩いているような音。
ゆっくり、確実に、私に近づいてくる。
恐る恐る振り返ると、そこに、あの少女が立っていた。
びしょ濡れの髪が顔に張り付き、口をひくひくと動かしている。
何か言っている……。
耳を澄ますと、かすかに聞こえた。
「いっしょに、泳ご……」
その瞬間、私は叫び声を上げて、ロッカールームから飛び出した。
廊下を裸足で駆け抜け、振り返ることなく学校を飛び出した。
次の日、担任の先生からこんな話を聞いた。
「あのプール、昔、事故があったんだよ。
女子生徒がひとり、練習中に溺れて亡くなったらしい。
誰にも気づかれず、底で……な。
それ以来、夜になると、誰もいないはずのプールから水音が聞こえるって噂だ」
私は背筋が凍った。
昨日見たあの少女……彼女はきっと、今も誰かと一緒に泳ぎたかったのだろう。
でも、もう、絶対にこのプールには近づかない。
たとえ呼ばれても、二度と。
――なぜなら、次に応えたら、今度は私が水底に連れて行かれる番だから。