春の陽射しは、すべてを祝福するように街を包み込んでいた。
駅前の広場には、桜がほころび、子どもたちの笑い声が風に乗る。
だが、紺野美咲にとって、それは呪いの季節だった。
マスク、メガネ、長袖。
完全防備でも、彼女の鼻はぐずぐずと鳴り続ける。
目は赤く腫れ、喉の奥がかゆく、頭までぼんやりと痛む。
朝から抗アレルギー薬を飲んでも、症状は止まる気配がない。
「……またか」
ため息をつきながら、美咲はバッグからティッシュを取り出した。
隣を歩く親友の麻衣が、心配そうに覗き込む。
「ミサキ、大丈夫? 顔、真っ赤だよ」
「うん、大丈夫……じゃないけど、大丈夫にするしかない」
笑おうとして、美咲はくしゃみを三連発した。
あたりの人々がちらりとこちらを見る。
春らしい服に身を包んだカップルたち、手を繋いで歩く老夫婦、観光客らしいカメラを持った女性たち。
その誰もが、春を楽しんでいるのに。
美咲だけが、春に負けていた。
昔は春が大好きだった。
小学生の頃は、ランドセルを背負いながら桜並木を歩くのが嬉しくてたまらなかった。
けれど高校生になったあたりから、異変は始まった。
最初は目がかゆいだけだった。
次に、くしゃみが止まらなくなった。
そして今では、春になると一歩も外に出たくなくなるほどになった。
「でも、桜、きれいだよね」
麻衣がぽつりと言う。
美咲も見上げた。
空いっぱいに、淡いピンクの花びらが広がっている。柔らかな光を透かして、桜はまるで天から降り注ぐ祝福のようだった。
涙がにじんで、視界がぼやけた。もちろん、花粉のせいだ。
「きれいだけど、今は憎いかも」
笑いながら言ったつもりが、声が震えた。
麻衣がそっと、美咲の肩に手を置く。
「……辛いの、無理しないでいいよ」
その優しさに、美咲の中に押し込めていたものが堰を切ったように溢れ出した。
悔しかった。
泣きたくなるくらい、本当は春が好きだったのに。
ただ普通に、春を楽しみたかっただけなのに。
「……私も、春、楽しみたいんだよ」
思わず本音が漏れた。
麻衣は少し目を見開いたあと、にっこりと笑った。
「じゃあさ、楽しもうよ。花粉症でも、できること、探そ?」
「できること……?」
美咲は目をしばたたきながら聞き返した。
麻衣は勢いよくスマホを取り出して、検索を始める。
「花粉が少ない場所とか、屋内で春を楽しめるイベントとか、探してみよう! 最近は花粉症対策のカフェとかもあるんだって!」
「……へえ」
美咲は驚いた。
花粉に負けずに春を楽しむ方法が、あるのかもしれない。
あきらめるしかないと思っていた自分が、少しだけ恥ずかしくなった。
しばらくして、麻衣が嬉しそうに画面を見せた。
「ほら! この植物園、温室の中だから花粉少ないって!」
「ほんとに?」
「うん、しかも、今、チューリップ展やってるって」
春の花。
桜じゃなくても、春はある。
美咲の胸の奥に、ほんの少し光が射した気がした。
「行ってみたい」
小さく呟くと、麻衣は満面の笑みでうなずいた。
「よし、決まり!」
ふたりで駅へと向かう道すがら、美咲はポケットのティッシュをぎゅっと握りしめた。
たぶん、すぐにまたくしゃみが出るだろう。
目もかゆくなるかもしれない。
それでも、春をあきらめない。
そんな小さな決意が、春風の中でそっと揺れていた。