冬の終わりが見え始めた三月のある日、早川千紘は一人、小さな山間の温泉地に降り立った。
雪はまだ残っていたが、空気にはわずかな春の香りが混じり始めていた。
千紘はとにかく「温泉」が好きだった。
熱すぎず、ぬるすぎず、身体の芯からゆっくりと温まっていくあの感覚がたまらない。
温泉に入ると、日々の疲れや不安がふっと軽くなるような気がする。
だから、年に数回はこうして一人旅に出るのが習慣になっていた。
今回訪れたのは、「湯ノ森(ゆのもり)」という、地図にもあまり載っていないような小さな温泉地。
木々に囲まれた静かな場所で、地元の人ですら「行ったことがない」というほどの秘湯だった。
案内された宿は木造の二階建てで、古いながらも丁寧に手入れされていた。
女将さんは物静かで、どこか幻想的な雰囲気をまとっていた。
「ここのお湯は、ちょっと不思議なんですよ」
チェックインのとき、女将がふとそう言った。
「不思議……?」
「ええ。湯気に、なにかが宿っていると昔から言われていて。悩みを抱えた人が来ると、湯気がそれを包み込んでくれるんだとか」
千紘は思わず笑ってしまった。
そんな話、まるで童話のようだ。
けれど、その夜。
露天風呂に浸かっていた千紘の目の前に、湯気の中から“なにか”がふわりと現れた。
――白い狐、だった。
はじめは湯気のいたずらかと思った。
でも、狐は確かに千紘の目を見て、ゆっくりと頷いた。
そして静かに、彼女の隣に座った。
千紘は驚きながらも、不思議と怖くはなかった。
「疲れているのですね」
狐の声が、頭の中に直接響いた。
音ではない、感覚に近いものだった。
「……うん、たしかに。仕事も忙しくて、人間関係もちょっと……いろいろあって」
「湯は、ただ身体を温めるだけのものではありません。心にも、効きます。あなたの疲れが流れれば、少しだけ楽になりますよ」
そう言うと、狐は湯の中へと姿を溶かすように消えていった。
翌朝、千紘は目覚めとともに、身体が軽くなっていることに気づいた。
まるで長い夢から覚めたような感覚だった。
朝食を終えた後、ふと露天風呂の方を見ると、湯気の中に一瞬、白い尾が揺れた気がした。
「また来てくださいね」
チェックアウトのとき、女将が柔らかく微笑んだ。
「湯ノ森は、人の心が温かくなる場所ですから」
それから千紘は、年に一度、必ず湯ノ森を訪れるようになった。
あの日見た白い狐の姿は、二度と現れなかったけれど、不思議と「見守られている」という気持ちはいつまでも彼女の中に残り続けている。