土に還る男

面白い

会社を早期退職して半年、佐々木誠一(ささき せいいち)は毎日が退屈だった。
若い頃から働きづめで、休みの日さえ何かしら予定を入れていた。
だが、定年より少し早く会社を辞めてみると、時間の使い方がまるでわからなくなった。
朝起きて、コーヒーを淹れて、新聞を読んで、それから――やることが、ない。

妻は朝からパートに出ており、子どもたちはすでに独立して家を出た。
誰もいない静かなリビングで、テレビの音だけが空しく響く。
「俺、なんのために生きてんだろうな……」
そんな独り言をつぶやく自分に、ふと怖くなった。

ある日、妻が何気なく言った。
「庭、雑草だらけになってきたわね。時間あるんだし、ちょっと何か植えてみたら?」
その言葉に、誠一は最初「面倒だ」と思った。
しかし、やることがないのなら――と、軽い気持ちで近所のホームセンターに行き、小さなスコップと軍手、そしてトマトとバジルの苗を買った。

最初はただの暇つぶしだった。
だが、土に触れ、水をやり、葉の成長を観察する日々は、思いのほか心地よかった。
芽が出る。葉が増える。
小さな蕾が、やがて実をつける。
「ああ、俺が育てたんだな……」
そんな達成感に、心がふわりと軽くなった。

夏のある日、初めて実った真っ赤なトマトを、妻が料理に使った。
「甘いじゃない、これ。誠一さん、やるじゃない」
褒められたことも嬉しかったが、それ以上に、家族の食卓に自分が育てたものが並ぶことが、たまらなく誇らしかった。

それから誠一は、庭の一角を本格的な菜園に変えた。
ナス、ピーマン、キュウリ、そして秋には大根や白菜まで――。
スコップを握る手に力が入り、汗をかくたびに「今日も生きてる」と感じた。

近所の人とも自然と話すようになった。
「そのトマト、うまく育ってるね」「ウチのキュウリは虫にやられてさ」――そんなやりとりが、誠一の日常を彩る。
地域の菜園サークルにも誘われ、今では若い主婦たちと野菜談義に花を咲かせている。
自分でも信じられない。
昔は人付き合いが苦手で、会社の飲み会すら嫌々出ていたのに。

ある晩、夕飯を食べながら、妻がふとつぶやいた。
「誠一さん、最近いい顔してるよ」
その言葉に、誠一は「そうか?」と笑った。
心のどこかで、こんなふうに自分を取り戻せるとは思っていなかった。

季節はめぐり、また春が来る。
誠一は今日も土に触れる。
種を撒き、苗を植え、水をやりながら、未来を育てている。
もう、退屈なんて言葉は頭に浮かばない。
人生は、土の中にも息づいている。
そう思えるようになっただけで、退職してよかった、と心から思うのだった。