一杯の奇跡

食べ物

昼下がりの商店街、風に乗って漂ってくる魚介の香りに、佐伯茜(さえき・あかね)は無意識に鼻をひくつかせた。
気がつけば、足は自然と馴染みの製麺所へと向かっている。

「茜ちゃん、また来たの? 今度は何ラーメン試す気だい?」
奥から顔を出したのは、店主の遠藤だ。
白髪交じりの眉を上げ、笑いながら言った。

「今日のテーマは“しじみ豚骨”です! 昨日、青森で食べたしじみラーメンが忘れられなくて。でも豚骨の濃厚さを組み合わせたら、どうなるか気になって」

遠藤は呆れたように笑いながらも、奥から特製の中太麺を持ってきてくれた。

茜は大学時代から、全国のラーメンを食べ歩き、ノートにその味・香り・食感のすべてを記録してきた。
今ではそのノートは十冊を超える。
食べるだけでなく、自分でもスープを炊き、タレを仕込み、チャーシューの火入れまで研究しつくしている。

けれど、ただの趣味だった。

……つい最近までは。

きっかけは、祖母の一言だった。

「茜、昔あんた、小さい頃に“自分のラーメン屋さん、開く”って言ってたじゃない」

その言葉が、不意に茜の胸に突き刺さった。

小さい頃、父親に連れて行かれた博多の屋台。
深夜の街角に漂う豚骨の匂い、屋台の大将の笑顔、そして湯気の立つラーメンの美味しさ――それは、子供の茜にとって魔法のような記憶だった。

「……やってみようかな」

その日から、茜は本格的に開業の準備を始めた。
資金、物件、許可、すべてが初めてで戸惑うことばかりだったが、それでも彼女は諦めなかった。

そして半年後、小さな6席のラーメン屋『あかね食堂』がオープンした。

最初の数日は、通りすがりの人がちらほら。
味には自信があったが、競合店も多く、簡単にはいかない。

だが、ある日、Twitterでひとつのツイートがバズった。

「隠れ家みたいな店で、貝の旨味と豚骨が絶妙な『しじみ豚骨ラーメン』、まじで革命」

その一杯を開発したのは、まさに今日の午前だった。
茜が徹夜で試作し、ようやく納得したスープだった。

次の日から行列ができるようになった。
雑誌の取材、テレビの撮影、SNSインフルエンサーの来店。
日々の厨房は戦場と化したが、茜の目は輝いていた。

「私のラーメンで、誰かが笑顔になるって……こんなに嬉しいことなんだね」

彼女の手には、かつてのノートがあった。
そこに書かれていた夢のページに、ようやく“実現”の印がつけられたのだった。