キムチの火、心の味

食べ物

中村浩一(なかむらこういち)、四十歳。
かつては大手広告代理店の営業部に勤めていた。
日々スーツに身を包み、クライアントの顔色を伺いながら数字を追う毎日。
しかしある時、ふと自分の人生に疑問を持った。

「このまま歳を取って、俺は何を残すんだ?」

そんな浩一の心の支えは、学生時代から作り続けてきた“キムチ鍋”だった。

大学時代、韓国からの留学生だった親友・ジフンから教わった本場のキムチの味。
唐辛子の奥にある甘味、発酵の深い旨味、鍋で煮込むと全体がひとつに溶け合う魔法のような味。
それをベースに、自分流の工夫を加え、浩一のキムチ鍋は独自の進化を遂げていた。

「誰かにこの味を食べてほしい」と密かに思っていたが、日常の忙しさにその夢は押しつぶされていた。

そんなある日、取引先とのトラブルで担当プロジェクトが頓挫。
責任を問われて閑職に回された浩一は、ついに決意する。

「俺、店やるわ。キムチ鍋の専門店。」

家族や友人は驚いたが、意志は固かった。
貯金を切り崩し、小さな物件を借りた。
場所は下北沢。
若者が集い、個性のある店が生き残れる街だ。

店名は**「火の鍋 こう」**。
「火」はキムチの赤と、彼の再出発への炎。
「こう」は自分の名前“浩一”から一字。

メニューはキムチ鍋一本。
豚キムチ、海鮮キムチ、豆腐メインのベジ鍋、辛さも5段階。
だしは三日かけて作る特製スープ。
キムチはジフンの実家から直接取り寄せ、熟成にこだわった。

最初の月は閑古鳥が鳴いた。
チラシを撒いてもSNSで発信しても反応は薄い。
「やっぱり無謀だったか」と不安が募る中、ある日一人の若い女性が来店した。

「辛いもの、めっちゃ好きなんです。SNSで見て、気になって。」

彼女は“レベル4”の豚キムチ鍋を完食し、笑顔でこう言った。

「これ、本気の味ですね。絶対流行ると思います。」

その日から、少しずつ口コミが広がった。
彼女がSNSに載せた写真がバズり、近所の大学生や外国人観光客が訪れるようになった。

一年後、「火の鍋 こう」はテレビにも取り上げられ、予約の取れない店となった。

ある夜、閉店後にふらりとジフンが現れた。
今は韓国で料理人をしているらしい。
再会を祝って、二人でキムチ鍋を囲む。

「お前の鍋、ちゃんと進化してるな。」
「お前がくれた味が、俺の道を作ったんだよ。」

ジフンが笑った。
「お前、いい顔してるよ。昔よりずっと。」

浩一は、鍋の中に赤く光るスープを見つめながら思った。
人生は一度きりだ。
ならば、自分の好きなものに正直でありたい。

外には寒風が吹いていたが、鍋の熱と笑い声が店内を温めていた。
それは、ただのキムチ鍋ではなかった。
彼の人生そのものだった。