高橋杏(たかはし・あん)はプリンが好きだった。
いや、「好き」という言葉ではとても足りない。
もはや人生における存在理由のひとつといっても過言ではない。
朝食にプリン、昼もコンビニでプリン、夜はスーパーで買った特売プリンで一日を締めくくる。
もちろん自作もする。週末には材料を買い込み、バニラビーンズを丁寧に裂いて、低温で焼き上げる本格派。
それが彼女の毎日だった。
ある日、杏は近所に新しくできた小さなカフェ「カフェ・ルフレ」に足を運んだ。
看板には控えめに「自家製プリンあります」と書かれていた。
それを見逃すはずがない。
扉を開けると、優しいコーヒーの香りと木の温もりが迎えてくれた。
カウンターに座ると、若い店主が静かに微笑んだ。
「プリンを一つ、お願いします」
「はい、うちの自慢なんです。お口に合うといいのですが」
出てきたプリンは、杏の目が釘付けになるほどの美しさだった。
琥珀色のカラメルソースがとろりと流れ、プリン本体はほどよく揺れている。
スプーンを入れると、しっかりとした弾力があるのに、口に入れると溶けてなくなった。
「……おいしい」
思わずつぶやく。
プリンを食べ慣れた彼女でも、これは別格だった。
「ありがとうございます。お客さん、プリン好きなんですね」
「ええ、毎日食べてます」
「じゃあ、うちのプリン、合格ですね」
その日から杏は、カフェ・ルフレに通うようになった。
店主の名は相澤蓮(あいざわ・れん)といい、もともとは有名なパティスリーで修業していたという。
だが、型にはまったスイーツ作りに疑問を持ち、自分の理想の「シンプルで心に残る味」を求めてこの店を始めたらしい。
「プリンって、不思議だと思いません? 材料はどこにでもあるのに、作る人によってまったく違う」
「わかります。食感、甘さ、香り、どれかが少し違うだけで、まるで別物になる」
「僕にとってプリンは、初心そのものなんです。料理を始めたとき、最初に作ったのがプリンでしたから」
杏もまた、心をこめてプリンを作る人だった。
二人は少しずつ、お互いのプリン観を語り合うようになった。
やがて杏は、自分が作ったプリンを蓮に持っていくようになった。
最初は緊張した。
だが蓮は真剣に味わい、真摯に感想をくれた。
「優しい味ですね。誰かのことを思って作ったような…そんな味です」
その言葉に杏の心はほどけた。
彼女がプリンを作るとき、いつも亡くなった祖母のことを思い出していた。
祖母が初めて教えてくれたおやつ、それがプリンだった。
春になったころ、杏はカフェ・ルフレで「杏のプリン」として、自作のプリンを期間限定で出すことになった。
少しだけ勇気を出して。
蓮が言ってくれた。
「誰かの記憶に残る味って、きっとこういうものだと思う」
「あなたのプリンだって、忘れられない味よ」
二人は笑い合った。
プリンを通じて出会い、心が通い合った二人。
甘くて、どこか懐かしい味。
それは、人と人をつなぐ、魔法のレシピだった。