わすれもののほんだな

面白い

まちのはずれに、ちいさな古本屋がありました。
名前は「ふることば書店」。
木の看板に、色あせた金色の文字がほこりをかぶっています。

この店をひとりで切り盛りしているのは、40代の男の人。
名前は安藤(あんどう)さん。
いつも無口で、店の奥にこもり、誰かと話すことはあまりありません。
客が来ても、うなずくか、小さく「どうも」と言うだけ。
話しかけられると、少し困ったように目をそらします。

けれど、むかしはちがいました。
安藤さんは、物語がだいすきな男の子でした。
寝るまえには毎晩、母のよむ絵本に耳をかたむけ、
「ぼくも、いつか、こんなおはなしをかきたいな」と夢を語っていたのです。

でも、大人になるにつれて、しごと、生活、責任、そして…たいせつな人の死。
少しずつ、夢も、言葉も、感情も、しまいこまれていきました。

そんなある日、店に一人の女の子があらわれました。
ランドセルを背負い、つかれたようすの母親といっしょに、店のドアをあけました。

「この子、どうしても“絵本がほしい”って言うんですけど…ここ、あります?」

安藤さんは、ちょっとだけ首をかしげて、店の一番奥の棚に案内しました。
そこは、ひと目につかない片すみにある、ほこりをかぶった古い絵本たちのコーナー。

女の子はうれしそうに、本を一冊手に取りました。
タイトルは『おとのないくにの ちいさな うた』。

安藤さんは、その本を見て、少しだけ目を見開きました。
――それは、むかし自分が、母と読んだ絵本だったのです。

女の子が帰ったあと、彼はふしぎな気持ちで、その棚をながめました。
気づけば、手が勝手に動いていて、本を一冊、また一冊と開いていきました。

『はっぱのうえのちいさなてがみ』
『くものうたがきこえたら』
『だれもしらない おひるねのまほう』

どの絵本にも、かつての自分がいました。
泣いたり、わらったり、ドキドキしたり、わくわくしたり――
忘れていた気持ちが、ページのすきまからあふれてきたのです。

その夜。安藤さんは、はじめて店を早く閉めました。
台所にお茶をいれ、机にノートをひろげて、ボールペンを手に取りました。

「ねえ、おとうさん。おはなし、よんで」

母の声と重なるように、胸の奥から言葉がぽろぽろ出てきました。
気がつけば、ページは小さな物語でいっぱいになっていました。

翌朝。
店のガラス戸に、ひとつの小さなポスターがはられていました。

『今月の絵本コーナーできました。おとなもどうぞ。』

それからというもの、店には少しずつ変化が起こり始めました。
最初は親子連れが、次に若いカップルや、仕事帰りのサラリーマン。
そして、白髪まじりの老婦人まで、絵本を手にとるようになったのです。

「なんだか、なつかしいね」
「泣いちゃった。子ども向けだと思ったのに」
「ページをめくるたびに、心がやわらかくなる気がする」

安藤さんは、はじめて気がついたのです。
絵本は、子どものためだけのものではないことを。
それは、大人の心の中にしまいこまれた“やわらかさ”を、そっと呼び戻してくれる魔法。

「ことばは、なくならないんだな」
ある夜、そうつぶやいて、安藤さんはまたノートに向かいました。

そして、一年後。
『ふることば書店』から、一冊の絵本が出版されました。

タイトルは――
『おとなになったきみに おくる ちいさな ことば』