高校三年の秋、渡辺翔太は最後のマラソン大会に臨もうとしていた。
風は冷たく、遠くの山がうっすらと紅葉に染まり始めている。
グラウンドにはクラスメイトたちの笑い声が響いていたが、翔太の心は重たかった。
彼はかつて陸上部のエースだった。
中学時代は数々の大会で優勝し、「長距離の天才」とまで呼ばれていた。
しかし、高校に入ってから膝を壊し、思うように走れなくなった。
リハビリに時間を費やす日々が続き、気づけばエースの座は後輩に譲り、自分は「過去の人」になっていた。
「お前、出るの?」
そう声をかけてきたのは、クラスメイトの村田だった。
「まあ、一応な」
翔太は曖昧に笑った。
「本気で走ったら、お前まだ速いんじゃね? 昔みたいにさ」
その言葉に、翔太の胸が少しだけざわついた。
しかし、それはすぐに現実に引き戻された。
今の自分は、記録を出すことよりも、完走できるかどうかすら怪しい。
スタートの合図が鳴り、全校生徒が一斉に走り出す。
翔太は一歩一歩慎重に足を進めた。
無理はしない。
でも、手を抜くつもりもなかった。
前半は調子が良かった。
呼吸も乱れず、膝も痛まない。
「いけるかもしれない」と思ったのは、折り返し地点を過ぎたあたりだった。
しかし、8キロを過ぎたところで膝に違和感が走った。
鈍い痛みが徐々に強まり、ついには足を引きずるようなフォームになってしまう。
後続の生徒たちが次々と追い越していく。
「やっぱり、無理なのか……」
翔太は立ち止まった。
呼吸は荒れ、膝は熱を持っている。
周囲の景色が滲む。あの日のことが頭をよぎる。
――初めて記録を諦めた日。
チームの足を引っ張ったと責められた日。
悔しくて、でも何もできなくて、走ること自体が怖くなった。
けれど、ふと顔を上げたとき、遠くの坂の上に見覚えのある姿を見つけた。
母だった。翔太の母は、いつも彼の大会に来てくれていた。
声援を送るでもなく、静かに見守るその姿が、いつも心の支えだった。
「翔太ー、がんばれー!」
その日、初めて母が大声で叫んだ。
恥ずかしさと驚きが入り混じったが、不思議と力が湧いてきた。
足が前に出た。痛みは変わらない。
でも、心が少し軽くなった。
走り続けた。
何度も立ち止まりそうになりながら、それでも前を向いて走った。
タイムなんて関係なかった。
順位もどうでもよかった。
ただ、自分が自分に負けないために。
ゴールが見えたとき、クラスメイトたちが拍手をして迎えてくれた。
村田が手を振っていた。
「翔太、おせーぞ!」
その声に、翔太は笑った。
悔しさでも、誇らしさでもない。
走り切ったという、ただそれだけの満足感がそこにあった。
あの日のゴールは、彼にとって過去との決別だった。
もう「元エース」ではない。
ただの一人のランナーとして、再び走り出したのだ。
卒業後、翔太は市民マラソンに出場することを決めた。
タイムは平凡だったが、完走後の彼の笑顔は誰よりも輝いていた。
「走るって、やっぱり気持ちいいな」
翔太の長いマラソンは、まだ始まったばかりだ。