坂口遥(さかぐちはるか)は、毎週月曜日の朝にミックスジュースを飲む。
それはもう、誰にも譲れない習慣だった。
きっかけは二年前。遥がこの町に引っ越してきたばかりの頃、慣れない職場と一人暮らしのストレスで体調を崩しかけていた。
そんなとき、たまたま入った駅前の喫茶店「カトレア」で注文したのが、ミックスジュースだった。
「これはね、うちの創業以来の味なのよ」
そう微笑んでグラスを差し出してくれたのは、店主の春子さん。
バナナ、リンゴ、みかん、牛乳、そしてちょっとだけハチミツ。
すりおろされた果物の自然な甘さと、まろやかなミルクが、疲れた身体にすっとしみた。
それ以来、遥は毎週月曜、出勤前にカトレアでミックスジュースを飲むことに決めた。
仕事がつらくても、週の始まりが少し楽しみになる。
それが遥の「リスタート」だった。
月曜の朝にしか来ない常連など珍しいのか、春子さんは遥のことをすぐに覚えてくれた。
ミックスジュースの他に、さりげない言葉も添えてくれる。
「今日も顔色いいわね」 「新しいブラウス、似合ってるわ」
それだけで、遥の一週間はちょっとだけ軽くなる。
しかし、そんな春が過ぎ、夏も終わった頃のことだった。
月曜の朝、いつものようにカトレアに入ると、カウンターの中に春子さんの姿がなかった。
代わりにいたのは、見慣れない若い男性だった。
おそらく30代前半。
エプロン姿がまだぎこちなく、ミキサーの前で少し戸惑っている。
「おはようございます。……ええと、今日はミックスジュースですか?」
「あ、はい。いつもの、お願いします」
そう言いながらも、遥の心はざわついていた。
春子さんは? 体調を崩したのか、それとも何かあったのか?
「ご心配ですか? 祖母なんです。ちょっと入院してまして……僕は孫の直哉といいます。しばらく代わりに店をやることになってて」
遥はほっと胸をなでおろした。
元気ではないらしいけれど、無事ならいい。
「祖母の味、ちゃんと守れるかわからないけど、頑張りますね」
そう言って差し出されたミックスジュースは、少しだけ味が違っていた。
バナナが強くて、ちょっと酸味が控えめ。
でも、それでも美味しかった。
「美味しいです。でも、春子さんの味とはちょっと違うかも」
遥が笑いながら言うと、直哉は少し照れたように笑った。
「ですよね。あの味は、僕でも再現できないんですよ。祖母って、計量とかしないから。『勘よ、勘』って」
それからというもの、遥は少しずつ、カトレアでの時間が増えた。
月曜の朝だけだった習慣は、水曜日や金曜日にも変わっていった。
「今日のジュース、ちょっと桃が入ってません?」
「さすが、わかりますか? 実家から送られてきたんで、試しに入れてみたんですよ」
季節ごとの果物が混ざるたびに、ミックスジュースも表情を変える。
それを言い当てるのが、ちょっとした楽しみになった。
ある月曜の朝、いつもの席に座った遥は、ふと尋ねた。
「直哉さんって、もともと喫茶店やってたんですか?」
「いえ、全然違う仕事してました。東京でシステムエンジニア。でも、ずっと心に引っかかってたんですよね、祖母の店のこと。だから、こっちに戻ってきたんです」
その言葉に、遥はうなずいた。
「私も、ここに来てから変わったんです。月曜の朝が怖くなくなった。ミックスジュースのおかげで、一週間がちゃんと始められるようになったんです」
静かに、コップがカウンターに置かれる音が響いた。
春の日差しのようにやさしいジュースの甘さが、遥の胸の奥にしみていった。
いつか、春子さんが戻ってきたら、こう言おう。
――ミックスジュースだけじゃなくて、この店の空気も、やさしさも、ちゃんと受け継がれてますよって。
そして今日も、月曜日が始まる。