山の中の古びたキャンプ場に、焚き火だけを見に来る男がいる。
名を田島という。年齢は五十を少し過ぎたころだろうか。
季節を問わず、月に一度は決まってこの場所に現れては、小さな焚き火を起こし、何をするでもなく炎のゆらめきをじっと見つめて帰っていく。
彼の焚き火は特別なものではない。
枯れ枝と松ぼっくり、時々は薪を一束持参する。
火の扱いは手慣れたもので、新聞紙を丸め、乾いた木の皮に火を移すと、あとは何も言わずに座る。
言葉も音楽もなく、ただ静寂の中に炎の音だけがパチパチと響く。
ある秋の日、管理人の娘・美空は思い切って声をかけた。
ずっと気になっていたのだ。
この人は、なぜ火を見ているのだろうと。
「寒くないですか?」
田島はゆっくりとこちらを見て、小さく首を横に振った。
「火があれば、大丈夫だよ」
その声には、どこか遠くを見ているような響きがあった。
美空はためらいながらも、焚き火の向かいに腰を下ろした。
炎が間にあることで、どこか安心できる距離が保たれていた。
「……昔から、焚き火がお好きなんですか?」
「いや、そうでもない。最近になってから、かな」
そう言って田島は少し笑ったが、その笑みは長くは続かなかった。
彼は炎を見つめながら、ぽつりと語り始めた。
「妻が、火を見るのが好きだったんだ。冬になると、よく小さなストーブの前でずっと座っててさ。俺はそれが不思議で仕方なかった。じっとして何が楽しいんだって。けど……ある年の冬、彼女がいなくなって、初めて気づいたよ。火を見るってのは、心の整理をする時間だったんだなって」
美空は黙って耳を傾けていた。
風が吹き抜け、炎が一瞬揺れた。
田島は手を伸ばして、小枝を火にくべる。
「最初は、寂しさを紛らわせたくて火を見てた。でもある日、ふと気づいたんだ。火のゆらめきって、彼女の気配に似てる。静かで、優しくて、でも触れようとするとすぐに逃げる。……そんな風に思えてきてな」
「奥さまに、会いたいですか?」
美空の問いに、田島はしばらく黙っていた。
炎の色が少しだけ赤みを増す。
「会いたいかって言われたら……もう一度、ただ黙って隣に座っていたいかな。言葉はいらない。ただ、火を一緒に見ていられたらそれでいい」
それきり二人とも、言葉を交わさなかった。
ただ、焚き火の前に並んで座っていた。
風は冷たかったが、不思議と寒さは感じなかった。
やがて火が小さくなり、田島はそっと水をかけて火を消した。
「火ってのは、不思議だよな。燃えているときは生きてるみたいなのに、消えると、ただの灰になる。でも、その灰も土に戻って、何かを育てる」
田島は静かに立ち上がると、美空に軽く会釈して帰っていった。
その背中は、どこか軽くなったようにも見えた。
それからというもの、美空は月に一度、田島が来る日を楽しみにするようになった。
時々はお茶を差し入れ、時には一緒に何も言わずに火を見つめる。
ただそれだけの時間が、何よりも心を温めてくれた。
焚き火は、言葉を超える。
誰かを思い出すために、誰かと繋がるために、そして自分自身を見つめ直すために——火は、今日も静かにゆらめいている。