深い森の奥、だれも知らない小さな村に、「にんじん村」というところがあった。
そこでは、にんじんがまるで金のように大切にされていて、村人たちは毎朝、にんじんを丁寧に収穫し、特別な方法でジュースにしていた。
この村のにんじんジュースは、ただの飲み物ではなかった。
飲んだ者の心を穏やかにし、悲しみや怒りをそっと包み込んでくれる、不思議な力を持っていた。
村の外れに、ルイという少年が住んでいた。
両親を幼いころに亡くし、祖母とふたりで暮らしていた。
ルイはにんじんが苦手で、いつも食べるふりをして畑の影に隠していた。
「ルイ、にんじんジュースは心の薬なんだよ」と祖母はよく言った。
「飲んでごらん。きっと、悲しいこともやわらぐから」
ルイは笑ってごまかしていたけれど、本当は祖母の言葉を信じていた。
ただ、苦手なものを口にする勇気がなかっただけだった。
ある日、村に異変が起きた。
大きな嵐が畑を荒らし、にんじんの多くが泥に埋もれてしまったのだ。
村人たちはがっかりし、誰もが心を沈ませていた。
にんじんジュースを失った村は、まるで光を失ったように暗くなってしまった。
そんな中、祖母が倒れてしまった。
「ルイ……ジュースを……一杯だけ……」
祖母は静かにそう言ったきり、目を閉じた。
ルイは震える手で、残された最後のにんじんを手に取った。
祖母が大切に育てた、ツヤツヤとしたにんじんだった。
村の古いジュース機にそのにんじんを入れ、ゆっくりとレバーを引いた。
ガタン、ゴトン……不器用な音がして、少し濁ったオレンジ色の液体がコップに注がれた。
ルイは、そのにんじんジュースを祖母のもとへ持って行こうとしたが、ふと手が止まった。
「……ぼくも、飲んでみようか」
にんじんのにおいが鼻をついた。
苦手な匂い。
でも、その中にどこか、懐かしい温かさがあった。
ルイはそっと口をつけた。
——甘い。
思っていたよりもずっと甘くて、優しい味だった。
口の中に広がるのは、祖母と過ごした日々の記憶。
あの日の笑顔、手を握ってくれた温もり、静かな語りかけ。
涙がぽろぽろとこぼれた。
「おばあちゃん……ありがとう」
そのとき、ジュースの残りを口にした祖母が目を開いた。
「……ルイ?」
「うん。ぼく、にんじんジュース、飲んだよ」
祖母はかすかに笑った。
ルイの涙を指で拭いながら、「やさしい味だったでしょう」とささやいた。
それから、村に少しずつ光が戻ってきた。
ルイはにんじんを育てるようになり、誰よりも早起きして畑に向かうようになった。
にんじんが苦手だった少年は、今では村一番のにんじんジュース職人になった。
そして毎年、祖母の誕生日には特別なジュースを作る。
それは、ルイにとって世界一優しい味——
あの日の、涙と笑顔が詰まったにんじんジュースだった。