陽向(ひなた)は、都会の小さなアパートで一人暮らしをしているごく普通の青年だった。
仕事はそこそこ、友達もまあまあ。
特別何かに夢中になることもなく、日々をなんとなくやり過ごしていた。
そんな彼が、ふとしたきっかけで心を奪われたものがある。
それは「ひよこ」だった。
ある春の日曜日。
近所の商店街で開催されていた「ふれあい動物フェア」に、なんとなく足を運んだ彼は、小さな囲いの中でピヨピヨと鳴きながら歩き回る黄色いかたまりに出会った。
ひよこ。
それは思った以上に小さく、柔らかく、そして温かかった。
手のひらに乗せると、ふわふわとした羽毛が指先をくすぐり、小さな体がかすかに震えていた。
彼はその小さな命を、まるで宝物のように感じた。
「この子、譲渡もできますよ」
そう言ったのは、動物フェアのスタッフだった。
その日から、陽向の生活は一変した。
ひよこを「モカ」と名付け、アパートに迎え入れた。
部屋の一角に小さな柵を設け、温度管理に気を遣い、ひよこ専用の餌も揃えた。
彼はまるで親になったような気持ちで、モカを育てる日々を過ごし始めた。
朝、目覚めると「ピヨッ」と鳴く声が聞こえる。
仕事から帰ると、ちょこちょこと寄ってきて足元にとまり、じっと見上げる小さな目。
テレビを観ながら一緒にゴロゴロしたり、休日にはベランダに小さな箱庭を作って日向ぼっこしたり。
そんな何気ない時間が、陽向にとっては何よりの幸せになった。
やがて、モカは成長して、可愛いひよこの姿から立派な鶏へと変わっていく。
「ひよこじゃなくなったなあ……」
ぽつりと呟いた陽向に、モカはコケッと一声鳴いた。
だけど、彼の中での“モカ”は、今も変わらずあの春の日に出会ったままの、ふわふわで優しい存在だった。
ひよこを好きになったことで、陽向は初めて「大切にしたい」と思える存在を見つけた。
そしてその気持ちは、彼の中に小さな変化をもたらしていた。
会社の同僚に対して、少しだけ優しくなった。
道端で困っているおばあさんに、思わず声をかけた。
コンビニでレジに並ぶとき、後ろの人を気遣って一歩ゆずった。
誰かのために何かをすることが、少しだけうれしいと感じるようになったのだ。
そしてもうひとつ、大きな出会いがあった。
近くの公園でモカと散歩していたある日、「かわいいですね」と声をかけてきた女性がいた。
彼女の名前は千歳。
彼女もまた、動物が大好きで、特に鳥類が好きだという。
それからというもの、二人はたびたび公園で会うようになり、モカを通じて仲良くなっていった。
春から夏、夏から秋へと季節は巡り、ある日、陽向はふと考えた。
「ひよこが好きになって、本当によかった」
モカを手のひらに乗せたあの日から、彼の世界はほんの少し広がった。
そしてその先に、こんなにも温かい日々が待っていた。
モカは今日も、ベランダの陽だまりで気持ちよさそうに羽を広げている。
陽向と千歳は、その様子を並んで見つめながら、そっと笑い合った。
ひよこは、ただ小さくて愛らしいだけの存在じゃない。
誰かの心に、希望や優しさや、未来を運んでくる。
そんなことを、陽向は今、実感しているのだった。