春の訪れを告げる風が、静岡県の駿河湾沿いの小さな町、由比の港に吹き抜けた。
桜の花がほころびはじめ、海の色もどこか淡くやさしい。
そんな季節になると、町はほんのりとした甘い潮の香りに包まれる。
さくらエビの季節だ。
中村陽一(よういち)、五十五歳。由比生まれの由比育ち。
この町で生まれ、この町で漁師として生きてきた。
彼の人生にはいつも海があり、そして、さくらエビがあった。
「春の漁がいちばん好きだよ」
陽一は、いつものように朝の港で仲間たちと準備をしながらそう呟く。
エビ漁は繊細で、一瞬の判断が漁の成果を左右する。
だが陽一は誰よりもその勘が鋭く、長年の経験と、さくらエビへの深い愛情が、それを可能にしていた。
さくらエビは、ただの漁獲物ではない。
それは陽一にとって、母の味であり、家族の記憶であり、人生そのものだった。
彼がまだ十歳だったころ。
父を海の事故で亡くし、女手一つで育ててくれた母は、毎朝せっせとエビの干し作業をし、夜には甘辛く煮たさくらエビを食卓に出してくれた。
やさしい香り、ほんのりとした塩気。
口に運ぶたびに、母の手のぬくもりが蘇る。
高校を出るとすぐに漁師の道へ進んだ陽一は、海とともに生きてきた。
町の行事や季節の祭りも、すべてさくらエビと共にあった。
春の初漁、夏の干し作業、秋のエビ御膳大会。
そして冬の静けさ。
そのサイクルは、まるで自然と共に呼吸をしているようだった。
だが、ここ数年で状況は変わり始めた。
さくらエビの漁獲量は減少し、環境の変化や資源管理の問題が浮き彫りになった。
若い漁師たちも少なくなり、陽一のようなベテランが現場を支えていた。
「このままじゃ、いつかエビも消えてしまうかもしれないな」
ある日の帰り道、陽一はつぶやいた。
だが、その横にいたのは、最近港に出入りするようになった若い女性、加奈だった。
「だからこそ、守りたいんですよね。陽一さんのエビも、町の味も」
加奈は東京から来た食品研究員で、地元の特産を活かした商品開発のために滞在していた。
偶然、陽一の干し場に立ち寄ったのがきっかけで、二人は親しくなった。
「さくらエビって、こんなに甘いんですね。生で食べたのは初めてで、感動しました」
初めて陽一の漁船に乗った日、彼女は目を輝かせてそう言った。
その純粋な驚きに、陽一は胸を打たれた。
――こんな風に、また誰かに、この味を伝えられるなら。
陽一は決めた。
残された時間を、この海と、エビと、この町の未来のために使おうと。
加奈と共に、新しい干しエビの製法や、保存技術の研究にも関わるようになった。
東京の大学とも連携し、さくらエビの生態調査や持続可能な漁法の実験も始まった。
港の朝は、今日も静かに始まる。
陽一は海を見つめながら、船を出す準備をする。
遠くで加奈が手を振る。
潮の香りと共に、やさしい春風が頬を撫でた。
人生の味は、時にほんのりとした塩味を帯びている。
だが、それがあるからこそ、甘さが引き立つのだ。
さくらエビの色のように、淡く、でも鮮やかに。