朝の静けさの中で、湯気がゆっくりと立ち昇る。
透き通ったカップに注がれた白湯は、まるで心の中のざわめきを鎮めるように、穏やかな温もりを宿していた。
冬木(ふゆき)遥は、毎朝白湯を飲むことを日課にしていた。
目覚めるとまず電気ケトルに水を入れ、ゆっくりと温める。
沸騰したお湯をマグカップに注ぎ、少し冷ましてから口に含む。
その一連の動作を繰り返してもう五年になる。
きっかけは些細なことだった。
社会人になって数年、仕事に追われる日々の中で、気づけば胃の調子が悪くなり、体の疲れも抜けなくなっていた。
そんなとき、偶然目にした健康法の記事に「白湯を飲むと体の巡りが良くなる」と書いてあったのを試したのが始まりだった。
最初は半信半疑だったが、毎朝白湯を飲むことで体がじんわりと温まり、次第に心まで落ち着いていくような気がした。
それは単なる健康法ではなく、彼女にとって一日の始まりを整える大切な儀式になっていた。
しかし、ある日を境に、遥の日常は少しずつ揺らぎ始めた。
***
職場の同僚、柏木(かしわぎ)拓真との会話が増えたのは、去年の秋頃だった。
彼は新しく異動してきたばかりで、最初はよそよそしかったが、ある日偶然オフィスの給湯室で白湯を飲んでいる遥を見かけ、「白湯派なんですね」と話しかけてきたのがきっかけだった。
「珍しいですね。僕も実は白湯飲むんですよ」
「そうなんですか?」
「朝、白湯飲むとちょっと気持ちが落ち着くじゃないですか。仕事前にちょうどいいというか」
意外な共通点に驚きながらも、遥は嬉しくなった。
彼との会話は心地よく、白湯のようにゆるやかに温かかった。
それから二人はたまに仕事の合間に話すようになり、気づけばお互いの存在が自然になっていった。
そして、季節が冬へと移ろう頃、彼は遥にこう言った。
「よかったら、今度どこかでお茶でも飲みませんか?」
一瞬、息が止まった気がした。
心の奥に小さな波紋が広がる。
遥は恋愛に積極的なタイプではなかったし、むしろ一人の時間を大切にするほうだった。
白湯を飲む時間も、心を整えるためのものであり、誰かと共有するものではなかった。
しかし、彼となら――そんな考えがよぎった自分に驚く。
***
待ち合わせたカフェで、遥はカフェラテを頼んだ。
彼はアールグレイティーを選んだ。
白湯ではなく、コーヒーでもなく、いつもと違う選択。
それだけで、遥は少し新しい世界に足を踏み入れた気がした。
「なんだか不思議ですね。職場以外でこうして話すの」
「そうですね。でも、なんとなく落ち着きます」
そう言うと、彼は微笑んだ。
その笑顔は、どこか白湯のように柔らかかった。
その日以来、二人は少しずつ距離を縮めていった。
朝、白湯を飲む習慣は変わらない。
でも、彼と過ごす時間が増えるにつれ、それはただの習慣ではなくなっていった。
いつしか、白湯を飲みながら、彼との何気ない会話を思い出すことが増えたのだ。
***
ある日、拓真がふとこんなことを言った。
「遥さんにとって、白湯って何なんですか?」
「え?」
「いや、いつも丁寧に飲んでるから。何か特別な意味があるのかなって」
遥は少し考え、それからゆっくりと答えた。
「うーん……私にとっては、心を整えるもの、かな」
「整える?」
「うん。毎朝白湯を飲むと、体が温まるだけじゃなくて、自分の気持ちもリセットできるんです。忙しくても、落ち着かなくても、とりあえず白湯を飲めば『よし、今日も頑張ろう』って思えるから」
拓真は静かに頷き、それから笑った。
「遥さんらしいですね。じゃあ、これからは僕も、白湯を飲むたびに遥さんを思い出すことにします」
冗談めかして言ったその言葉が、遥の心の奥深くに、ゆっくりと染み込んでいった。
それからしばらく経ち、春が訪れる頃には、遥の習慣にも小さな変化が生まれていた。
朝の白湯は変わらず飲む。
でも、そのあとスマホを手に取るのが新しい習慣になった。
拓真からの「おはよう」のメッセージを見るのが、朝のルーティンの一部になっていた。
そしてある日、彼からこんなメッセージが届いた。
「今度の休み、桜を見に行きませんか?」
遥はスマホを見つめながら、ゆっくりと白湯を飲んだ。
その温もりの先にある、新しい景色を思い浮かべながら。