秋山直樹は、高所恐怖症だった。
幼い頃、祖父に連れられて行った展望台で、ほんの数メートル先の柵の向こうに広がる空間を見た瞬間、足がすくみ、手に汗がにじんだ。
それ以来、高いところは彼にとって避けるべき敵となった。
そんな彼が、ビルの窓拭きの仕事をすることになったのは、まったくの成り行きだった。
大学を卒業し、就職活動に失敗し続けた末、友人の紹介で始めた清掃会社の仕事。
最初はオフィスの床掃除や廊下のワックスがけをしていたが、人手不足のため、ある日突然、「ビルの窓清掃をやってみないか?」と打診された。
「俺、高いところダメなんです」
そう訴えたが、「慣れれば大丈夫だ」と軽く流された。
最初の日、直樹は地上十階の高さのゴンドラに乗せられた。
強風にあおられたとき、足元がぐらりと揺れ、思わず手すりを強く握った。
心臓が喉元までせり上がる感覚に、息が詰まりそうだった。
「おい、大丈夫か?」
先輩の佐々木が笑いながら声をかけた。
「最初はみんな怖いんだ。でも、空を見ろよ」
直樹は恐る恐る顔を上げた。
そこには、眼下に広がる街並みと、その先に広がる青空があった。
雲がゆっくりと流れ、遠くには山並みがかすんで見える。
美しい。だが、やはり怖い。
しかし、仕事は仕事だった。
彼は毎日ゴンドラに乗り、震えながらも窓を磨き続けた。
最初は視線を足元に固定し、ひたすら作業に集中することで恐怖をやり過ごしていたが、次第に少しずつ慣れてきた。
ある日、ビルの三十階にある窓を拭いていたとき、子供の姿が目に入った。
五歳くらいの男の子が、室内からじっとこちらを見つめていた。
直樹が手を振ると、男の子はにっこり笑い、ガラス越しに手を振り返した。
その無邪気な笑顔に、直樹の心がふっと軽くなるのを感じた。
怖いのは、空ではなく、自分の心かもしれない。
それからも直樹は恐怖と向き合いながら、少しずつ変わっていった。
ある日、休日に友人とハイキングに出かけた。
以前なら絶対に近づかなかった山の展望台に、一歩足を踏み入れてみた。
まだ怖さはあったが、それでも前よりもずっと冷静に、空を見上げることができた。
「空に手を伸ばしてみろよ」
ふと佐々木の言葉を思い出した。
直樹は、そっと手を空にかざしてみた。
その空は、もうそれほど遠くには感じなかった。