春野陽介は、どこにいてもビビンバのことを考えていた。
辛いコチュジャンの香り、熱々の石焼きの器にじゅうじゅうと焼き付くご飯、そして色とりどりのナムルが織りなすハーモニー。
その味を思い出すたび、彼の心は踊った。
陽介がビビンバに出会ったのは、高校の修学旅行で訪れた韓国だった。
それまで特に食事にこだわりがあったわけではない。
しかし、現地の小さな食堂で出されたビビンバをひと口食べた瞬間、彼の価値観は大きく揺らいだ。
「こんなに美味しいものがあったのか!」と。
それからというもの、陽介のビビンバ愛は止まらなかった。
大学生になり、一人暮らしを始めた彼は、自炊を覚えるよりも先にビビンバの作り方を学んだ。
初めはスーパーのナムルを適当に混ぜるだけだったが、次第に自家製のナムルを作るようになり、やがてコチュジャンの配合にもこだわり始めた。
そんな陽介には、行きつけの韓国料理店があった。
大学近くの路地裏にひっそりと佇む「チング食堂」。
そこのビビンバは、陽介の理想そのものだった。特に店主のパクさんが作る「石焼ビビンバ」は、絶品だった。
ある日、陽介は思い切ってパクさんに尋ねた。
「どうしてここのビビンバはこんなに美味しいんですか?」
パクさんは陽介をじっと見つめ、笑った。
「それはね、ビビンバには食べる人の気持ちが映るからだよ。お前さんが美味しいと思って食べるから、もっと美味しくなるんだ」
その言葉は陽介の心に深く残った。
大学卒業後、陽介は一般企業に就職したものの、どうしてもビビンバへの情熱を捨てられなかった。
毎日満員電車に揺られ、忙しく働くうちに、ふと思った。
「俺は本当にこれでいいのか?」
ある日、仕事で大きなミスをしてしまった。
上司に厳しく叱責され、失意のまま「チング食堂」に向かった。
すると、カウンターの向こうで包丁を握るパクさんが、いつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
「お、陽介。今日は疲れてるな?」
出された石焼ビビンバをひと口食べると、込み上げる涙を止められなかった。
じゅうじゅうと焼けたご飯の香ばしさ、甘辛いコチュジャン、優しいナムルの味。
それらが混ざり合い、彼の心を温めた。
「パクさん、俺……やっぱりビビンバが好きなんです」
気がつけば、陽介は自分の思いをぶつけていた。
すると、パクさんは静かに頷いた。
「なら、やってみるか? ビビンバの道を」
陽介は驚いたが、その言葉に迷いはなかった。
「やります! 俺、ビビンバを作りたいです!」
それから陽介は仕事を辞め、「チング食堂」で修行を始めた。
包丁の持ち方、米の炊き方、ナムルの味付け……すべてが奥深く、苦労の連続だった。
それでも、ビビンバのことを考えるだけで、彼は前向きになれた。
数年後、陽介は「チング食堂」の味を受け継ぎ、新たな店を開いた。
「陽のビビンバ」。
店の看板メニューは、パクさん直伝の石焼ビビンバ。
初めて食べる人も、常連の人も、口に運ぶたびに笑顔になる。
「ビビンバには、食べる人の気持ちが映るんだ」
パクさんの言葉を思い出しながら、陽介は今日も石焼の器を熱く熱し、お客さんの幸せを願いながらビビンバを作るのだった。