ぬるめのお湯に溶ける時間

面白い

蒼井由香(あおい ゆか)は、半身浴が好きだった。
朝の冷たい空気を吸い込むときも、仕事帰りに疲れた体を引きずるように駅の階段を上るときも、彼女の頭の片隅には、バスルームで過ごす至福の時間があった。

由香のこだわりは、温度と時間。お湯は38度。
長風呂を楽しむためには、これ以上熱くてはならない。
そして時間は最低でも40分。
お気に入りのバスソルトを入れ、本を一冊持ち込んで、じっくりと身体を温める。
それが彼女のルーティンだった。

ある金曜日の夜、由香はいつものように浴槽に身を沈めた。
バスソルトはラベンダーの香り。
深く息を吸い込むと、仕事で張り詰めた神経が少しずつほどけていくのがわかった。
手に取った本は、村上春樹の短編集。
じっくりとページをめくりながら、お湯の揺らぎに身を任せる。

——ピンポーン。

突然、インターホンが鳴った。

「こんな時間に?」

彼女は驚いて時計を見る。
午後10時を少し過ぎたところだった。

無視するべきか、一瞬迷ったが、もしかすると何かの急用かもしれない。
バスタオルを体に巻きつけ、髪から滴る水を気にしながら玄関へ向かった。

ドアの覗き穴を覗くと、見慣れた顔がそこにあった。

「……拓海?」

隣に住む藤原拓海(ふじわら たくみ)が、申し訳なさそうに立っていた。
彼とは顔を合わせる程度の間柄で、深い付き合いはなかったが、何度かエレベーターで会話を交わしたことはある。

「ごめん、夜遅くに。ちょっと助けてもらえない?」

「え?」

彼が見せたのは、鍵だった。

「部屋の中に閉じ込められちゃってさ。鍵が壊れたみたいで、どうしても開かないんだ。スマホも部屋に置いたままで……」

彼の部屋はオートロック。
つまり、一度出てしまえば、鍵がなければ戻れない。

「それで、どうすればいいの?」

「管理人さんに電話したいんだけど、番号が分からなくて……もし知ってたら教えてほしいんだけど」

「ちょっと待って」

彼女はスマホを手に取り、管理会社の番号を探した。

「これ、掛けてみる?」

「ああ、助かる!」

彼は何度か呼び出し音を聞いた後、事情を説明し始めた。
由香はその様子を見ながら、徐々に身体が冷えていくのを感じた。
タオル一枚では心許ない。

「寒くない? ちょっと待ってて、バスローブ取ってくる」

彼女がそう言うと、拓海は「悪いね」と苦笑した。

バスルームに戻り、バスローブを羽織って戻ってくると、拓海は電話を終えたところだった。

「管理人さん、今から来てくれるって。30分くらいかかるらしい」

「そうなんだ……じゃあ、寒いし、中に入る?」

思わず口にした言葉に、拓海は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに「じゃあ、お言葉に甘えて」と微笑んだ。

由香はお茶を淹れ、二人でリビングのソファに座った。
こんな形で拓海と会話するのは初めてだったが、不思議と気まずさはなかった。

「お風呂、途中だった?」

「うん。でも、まあいいよ」

「半身浴、好きなんだね」

「え? なんで?」

「よくバスソルトのいい香りが廊下まで漂ってくるからさ」

「え、そんなに?」

「うん。でも、いい匂いだなって思ってた」

由香は少し頬が熱くなるのを感じた。
お風呂が好きなことは誰かに話すほどのことではなかったけれど、こうして誰かに気づかれるのは不思議な気分だった。

「俺も昔はよく半身浴してたんだ」

「え、意外。今はしないの?」

「最近忙しくてね。でも、話してたら久しぶりに入りたくなってきたな」

「じゃあ、試しにラベンダーのバスソルト使ってみる?」

冗談っぽく言うと、拓海は少し驚いたような顔をした後、笑った。

「そうだな、今度試してみようかな」

そう言った彼の横顔が、なぜか心に残った。

管理人が到着し、拓海は無事に自分の部屋へ戻ることができた。
その後、由香は再び浴槽に浸かった。
ぬるめのお湯が、さっきまでの会話をゆっくりと溶かしていくようだった。

もしかすると、今日の出来事がきっかけで、彼との距離が少し縮まったのかもしれない。

バスソルトの香りに包まれながら、由香はぼんやりとそんなことを考えていた。